アパートの一室、古びたドアの前に立って、一度だけ深呼吸をすると私はインターホンを鳴らした。誰だ、という怒号が部屋の中から聞こえてくる。しかし、その声には怒りや攻撃的な感情よりも、防御。恐れに覆われた拒絶的な響きが孕まれていた。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。私だよ。鍵を開けてくれない?」
三十秒ほど経って、ドアが鈍い音を立てて開いた。わずかに開かれた隙間から、この部屋の住人である私の実兄が、来訪者の姿を確認する。
「ご飯、買ってきたから。一応、一週間分」
「あ、ああ。いつもありがとう。金を渡すから、早く中に入れ」
私が部屋に入って靴を脱ぐと、兄はそそくさとドアを閉め、厳重に鍵をかけた。換気が足りないこの部屋はいつでもホコリが舞っていて、生乾きの洗濯物の臭いと、積み重なったゴミの臭いが絡み合い、ワンルームの空気を汚している。カーテンが閉め切られ、明かりが点けられることがないまま薄暗く淀んだこの部屋は、よく晴れた日曜日の昼下がりを過ごすには最悪の環境である。
「ゴミくらい捨ててきたほうがいいと思うな。身体に毒だよ。それともまだ難しい?」
テーブルに置いたビニール袋からコーラを一缶取り出すと、私は吸い込んでしまったホコリを洗い流すように飲んだ。私の言葉を聞いた兄貴は途端、不快そうに表情を歪めて私を睨んだ。
「そんなことできるわけないだろう。どこの誰が俺のことを監視しているかわかったものじゃない。きっとゴミ袋の中身だって漁られて、あいつはカップラーメンばっかり食ってるんだな、自炊も出来ない奴なんだ、ダッセぇとか言われるんだよ。そんなの嫌だ」
「カップラーメンばっかり買ってくるのは私が悪かったけれど、お兄ちゃんが満足に自炊も出来ない奴なのは事実でしょ」
「嫌だ。俺は嫌だぞ。どこで誰に見られて、笑われるか、晒されるか、わかったものじゃないんだ」
私は苦笑した。
「お兄ちゃん、まだ誰かに見られている気がしているの?」
「いや、これは思い過ごしなんかじゃない。真実なんだ。俺は世界中から一挙一動を監視されている。俺のことをあざ笑うために。この部屋にいる時が一番安全なんだ」
「うん、そうだね。お兄ちゃんがそう言うなら、きっとそうなんだろうね」
ブルブルと震えながら、兄はかすれるような声で言った。その顔はすっかり痩せこけて、目には強烈な怯えの色が浮かんでいる。伸びきったヒゲを蓄え、まるで檻の中の獣のように歯を剥き出しにしていた。
兄がこの部屋にこもりきり、私は世界中から監視されていると言い出して二ヶ月になる。見えない目が、おびただしい数の視線が、自分を襲っているのだという。
「お兄ちゃん、いつも部屋で何をしているの?」
「音楽を聴いている。あと、マンガを読んでいる。もう何度も読んでしまったやつだけど……」
「そっか、そこそこ充実していそうだね」
「昨日、CDから笑い声が聞こえたんだよ。あれ、俺を笑っているんだよな。怖くて割っちまった。俺達は、いつでも、お前を笑えるんだって、俺に伝えてきたんだ」
「ふうん、そいつは辛いね」
幻聴なのかそういう曲なのかはわからないけれど、否定しないでおいた。
「辛いなんてもんじゃない。奴らは俺を壊しに来たんだ」
まだ壊れていないつもりだったのか。私は室内を見渡した。本や食べ終えた食事の容器が散らばって、足の踏み場もないほど物に溢れたこの部屋の中でより私の視線を奪ったのは、ベッド横のデスクの上で半端に破壊されたデスクトップのパソコンである。兄が壊したものだ。
兄は二ヶ月前まで、ブログを運営していた。とはいっても、只々何気ない日常を記したり、ペットの写真をあげたりするような、一般的な内容とは少し違う。
主に、ネット上で起こった他者の騒ぎや事件を取り扱った記事を罵倒するように書いた。標的となったのは皆、兄とは縁もゆかりも無い人間ばかりである。
最初はまるでテレビに向かってなげるようなささやかな批判や説教でしかなかったけれど、次第に兄はその深みにはまり、なぜそこまで言う必要があるのかと思うくらい、私には目にするのも辛くなるような厳しい言葉を投げるようになっていく。
兄のブログには多くのアクセスが集まった。今更言うまでもないけれど、世の中は見知らぬ他人の失敗や失態、他人同士の諍いを好む人間が非常に多い。正義や道徳の御旗の下でとにかく誰かを殴りたいけれど、殴り方もわからなければ殴る相手を見つけることも人任せにしたい人達だ。兄のブログはそういった読者層によく好まれた。兄は彼等の期待に応えるよう、まるで拡声器で言いふらすように、騒ぎを実態より大きくすることもあった。
どんな些細な失敗も見逃さないため、兄は徹底的に他人の動向を監視した。自分のことを遠くへ放り投げて、他人の騒ぎや失敗をめざとく見つけるために両目を光らせ、悪しざまに書き散らすために指を動かし、罵りの言葉を思い浮かべるために脳を回転させた。誰から報酬をもらうでもなく、誰かに対価を払うでもなく。
兄の栄華は二ヶ月前、実にあっけなく終わりを迎える。ブログに書いた何気ない一言が大きな批判を浴び、あれよあれよと騒ぎが拡大した。兄がどんなに言葉を紡いでも、誰かから辛辣な批判が飛ぶ状況が生まれた。普段の姿勢がその状況に拍車をかけ、気が付けば兄は殴る側から殴られる側へ、監視する側から監視される側へと変わってしまったのだ。
「俺にはもう、お前以外信用できない。頼むから、お前だけは俺を叩かないでくれ。俺を責めないでくれ」
「そんなことするわけないでしょ。私は理由もなくお兄ちゃんをいじめたりなんかしないよ」
「怖いんだ。世界中の人間が、俺を見つめているような気がするんだ」
兄はブルブルと震えると、布団に潜って身体を丸め込んだ。きっと、一日に何度もこういった姿勢で恐怖感をやり過ごしているのだろう。
「この壊れたパソコン、代わりに捨てておくね。爆発したりしたら怖いし」
「あ、ああ、頼んだ」
あれだけ傾倒していたネットを断った兄は、自分はどこにいても、誰かから監視されていると思うようになり、部屋にこもりきりの生活を送るようになった。昔から被害妄想の強い方ではあったけれど、だからこそ保身の意味も兼ねて、他者に対する嗜虐性も強かったのかもしれない。今は親からの仕送りがあるので食うには困っていないけれど、今は私が週に一度、食事を買ってきたり雑用を片付けたりしている。
「なあ、俺は小さいころ、お前をよくいじめていたよな」
急に兄がしおらしい声を聞かせる。
「さあね、忘れたよ。そんな昔のこと」
「ごめんな、お前にあんなに酷いことしたのに、こんなに優しくしてもらえるなんて。お前は優しいなあ」
「気にしないで。実の兄妹なんだから。まあ、いつまでもこのままとまではいかないけれど、今はゆっくり休んでいるといいよ。それに私は、お兄ちゃんがひどい人間だなんて、思ったことは一度もないよ」
そう言うと兄は、ありがとう、本当の俺を見ていてくれるのはお前だけだと、震える指でビニール袋からペットボトルのお茶を取り出した。
「本当の俺を見ていてくれるのは、か……」
と、私はつぶやいた。
ずいぶん信頼されたようだ。噛み付きぐせのある犬を調教した気分である。だとしたら兄は、本当のことを聞いてどう思うだろう。
お兄ちゃんを攻撃したのは私なんだ、と。
最初は、兄に軽くお灸をすえてやるつもりだった。ネットの世界は広大で、他人、もしくは組織や企業を「炎上」させることをビジネスにしている人間もいる。
兄のブログを発見したとき、私はいつだったか、お兄ちゃんからひどくいじめられていたことを思い出した。私のささやかな失敗を、兄の立場を利用したり、ときには両親の手を借りて徹底的に責めあげ、それでも自分の不正は隠し続けた兄。あの頃と何も変わらないまま成長したこの人に、私なりの報復を兼ねて、今の自分がやっていることと全く同じやり方で猛省を促すつもりだった。
しかし、ここまで兄の心が折れるというのは、私でも予想外だったのだ。いや、少しはそういう期待をしていたのかもしれない。私が兄や兄を支持した人間達のように、誰が晒しあげ、殴り、傷つけ、折っていく場面に快楽を見出す人種ではないと、どうして言い切れるだろう。それが誰でも持ちうる感情だったから、兄の栄華があったのではないか。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。私がついているから。私はお兄ちゃんを裏切ったりなんかシないから」
「本当だな。世界中の視線から、俺を守ってくれるな」
「うん、守るよ。約束する」
もちろん、もうこの世で兄に関心がある人間なんて、私以外存在しない。当たり前だ。兄がしてきたことは他人の心の傷以外何も残してこなかった。だから兄も誰かの中に残らなかった。兄程度の人間の替わりはこの世に腐るほど溢れている。殴る側にも、殴られる側にも。
ただ、兄はいつでも監視されているのだ。私という人間に。この檻の中でゴミと、布団と、尊厳を腐らせながら。
私は兄がこれ以上折れぬよう監視し続けなればならない。だけど私にはいつでも、兄の心を完全に殺すことができる。私の報復が終わり、兄は報いを受け、二人の贖罪の日々は、すえた臭いのする部屋の中で今も続いている。
「しばらく面倒みてあげるね、お兄ちゃん」
(本作は過去にストリエで掲載された掌編に加筆を加えたものです。現在ストリエでアダルトグッズ擬人化百合小説を連載中ですので興味のある方は是非御覧ください↓)