石田長生さんの訃報がツイッターやFBで7月8日の朝から広まり、HPを訪れてみると確かにその事実が告知されていました。
ご報告。
かねてから闘病中でした石田長生ですが、残念ながら7月8日の早朝に永眠いたしました。
回復を信じて応援して頂いた皆さま、有難うございました。【スタッフより】
そこでギタリストでアーティスト、プロデューサーでもあった石やんこと石田長生さんを追悼するコラムをお届けします。
BGMはザ・バンドのカヴァー「ザ・ウェイト(The Weight)」、かまやつひろしさんとのデュエット・ヴァージョンです。
石やんと音楽との決定的な出会いは、小学5年生で出会ったビートルズ映画だったという。
小学5年のときに『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』の映画を観に連れてってもろうて、始まった瞬間、「オレはおおきなったらこういうことしよう!」って、そこで決めたんですよ。
アタマの“ジャ〜ン♪”っていうのが鳴って、ビートルズがファンに追いかけられて走って逃げる、ジョージがコケる……映画始まった瞬間、これやと思ったね。
マイクの前でエレキ・ギターを首からぶらさげて歌うって、なんてかっこええんやろうって。
音楽の道に憧れた頃は京都出身のタイガースを筆頭にGSブームが起こっていたが、本格的にギタリストを目指した高校時代にはブームが終息してしまった。
そこで大学に入ってジャズギターを弾き始めたものの、今度は『Soul To Soul』という映画のなかでウィルソン・ピケットの歌うシーンに感動し、ジャズをやめてソウル・ミュージックへと身を投じた。
ちょうどその時期にB.B.キングの大阪公演を見たこともあって、R&Bに傾倒して70年代の初頭には上田正樹や佐藤博らとバッド・クラブ・バンドを組み、レイ・チャールズやジョー・コッカーのコピーから始めて大阪や京都のブルース・シーンで頭角を現していく。
その一方で「春一番」コンサートに出るシンガー金森幸介のバックを、バッド・クラブ・バンドでやってくれないかと頼まれたのをきっかけに、「喫茶ディラン」に通うようになって常連だった西岡恭蔵や大塚まさじとも知り合った。
ザ・ディランⅡ時代の西岡恭蔵の楽曲をレコーディングした企画アルバム、『オリジナル・ザ・ディラン』に参加したのが初レコーディングとなった。
60年代の関西におけるブルースやR&Bのシーンと関西フォークからスタートしたURCの連中とは、初めは交流がなかったが、それをつないだのが石やんだった。
大阪にやってきた友部正人が泊まるところがないというので、上田正樹の事務所に泊めてあげたりと石やんはあたりが柔らかく面倒見も良かった。
当時の大阪は関西フォークの牙城だったURCがばらばらになった後で、一種のカオス状態にあり、R&Bやブルースをやっていた連中も日本語で歌うことに積極的で、フォークの連中は岡林信康とはっぴいえんどの関係などからバンドが持ってるグルーヴ感というものに惹かれ始めていた。
1975年に単身で渡米した石やんはメンフィスのソウル・ミュージシャンたちと交流し、本場のスタジオでプロデューサーの仕事というものを目の当たりにして帰国した。
それから山岸潤史、北京一、チャールズ清水、永本忠、土居正和、ベーカー・土居、砂川正和、国府照幸とでツイン・ドラムス、ツイン・キーボード、ツイン・ギターという、スーパーグループ的なブルースバンド「ソー・バッド・レビュー」を結成する。
それからはいくつものシーンが交わるクロスロードに立ち、人と人をつなぎながら次々にアルバムをプロデュースしていった。
まずは「ソー・バッド・レビュー」がライブの面白さと迫力で評判になり、アルバム・デビューの話が持ち込まれたので、LAで『SOOO BAAD REVUE』(1976)を録音することにした。
石やんは最初の1ヵ月をLAにあるアサイラム・レーベルのスタジオで、ソー・バッド・レビューとしてレコーディングした。
2か月目からはハリウッドの別のスタジオで西岡恭蔵のアルバム、『南米旅行』にバンドと一緒に参加した。
3ヵ月後には加川良を連れてメンフィスに行って、『南行きハイウェイ』のプロデュースやっている。
これには前年に行ったメンフィスでプロデューサーのウィリー・ミッチェルと知り合い、気にいられて面倒を見てもらった体験が役立ったという。
個性的でアクの強いアーティストやミュージシャンたちからも信頼を得て、上手に人と人を結びつける役割を自然に受け持っていったのだろう。
その後もザ・ディランⅡ解散から1年半後の1976年3月に発売された、大塚まさじのファースト・ソロ・アルバム『遠い昔ぼくは‥‥』をプロデュースし、ソロとして自由になった大塚まさじの魅力を1枚のレコードに凝縮させた。
Charと2人でアコースティック・デュオの「馬呆(BAHO)」を結成したのは1989年で、ここからはギタリストやプロデューサーとして以上に、アーティストとして一般にも名前が知られるようになった。
1996年からは活動の中心を東京へ移して、旅をテーマに全国各地をまわる「石やん一人旅」を始めたほか、南米のブラジルやアルゼンチン、ペルーを回ってセッションして音楽を吸収したり、南太平洋(サモア、トンガ、フィジー)及びジャマイカ、メキシコなどにも渡って演奏するというワールドワイドな活動にも身を入れてきた。
2014年11月19日、かねてから入院中だった母親シゲノ(享年90才)さんが永眠した翌日、 石やんは自分のブログにこんな言葉と歌を捧げていた。
いろいろ迷惑、心配かけたなぁ、お母ちゃん。
子供の頃の母親とのいろんな記憶や景色を今、想い浮かべている。
[マザースソング]
I Remember ずっと昔 子供の頃に
Mama Told Me 「御飯いっぱい食べなきゃ駄目よ
Come on Boy ! 早くいっぱし男になって」
Mama Told Me 「いつかイカしたBluesを歌って」
I remember「街の誘惑、気をつけなさい」
Mama Told me「化粧、香水、気を引く女
Come on Boy ! いつもこの世はお金で動く」
Mama Told Me 「だけど魂、取られちゃいけない」
彼女のBabyは転がる石ころ
宝探しの旅に出る
彼女のBabyは大きな赤ん坊
たまには今も大きな声で泣く
I Remember「 良くない事もたまにはあるさ」
Mama Told Me「お前のパパも完璧じゃない
Come on Boy ! いつか大人になったら、きっと」
Mama Told Me 「お前の歌うBluesで酔わせて」
彼女のBabyは転がる石ころ
宝探しの旅に出る
彼女のBabyは大きな赤ん坊
たまには今も大きな声で泣く
I Remember ずっと昔 子供の頃さ
Mama Told Me 「御飯いっぱい食べなきゃ駄目よ
Come on Boy ! 早くいっぱし男になって」
Mama Told Me 「ギター抱えて Bluesを歌って」
ありがとう、おふくろ
ゆっくり眠ってや
11月19日夕方…。
ありがとう、石やん、ゆっくり眠ってください。
(注)石田長生さんの発言は、<『MUSIC×関西70’s』MUSEUM VOICE 石田長生(ミュージシャン) インタヴューTEXT/今井智子>からの引用です。全文はこちらからどうぞ。http://momm.jp/music_kansai70/talk01_03.html#interview_read