【ネットと表現の自由】 平野 啓一郎さん
◆争点縮減へ 公論の場を
インターネットの進展について、私は常々、「拡充」という言葉を用いてきた。つまり、「拡大」であるのと同時に「充実」であって、その評価は、ある程度は、量的に、また質的に下すことが可能だろう。
ところで、そのネットは、「表現の自由」の拡充に寄与したのだろうか?
この問いは、一見、愚問とさえ感じられるだろう。ネットは、公的(社会的)な言論空間への参加者の規模と一個人の発言の影響力とを、いずれも飛躍的に拡大した。
しかし同時に、ネット上の炎上リスクを警戒するあまり、過剰な自主規制が広まりつつあることも事実である。それは、マスコミや企業、著名人のみならず、一個人のほんの些細(ささい)な言動にまで広く浸透しつつある。表現の自由の充実という意味では、むしろ以前より窮屈を感じている。
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この不自由の実感は、平均化されたものではない。私たちは、ヘイトスピーチに象徴されるように、かつてはとても公共の場では口に出来なかったような酷(ひど)い主張が、まさしく「表現の自由」の名の下にまかり通っている現実を目撃している。表現の自由は、つまり、一方では萎縮し、他方では暴走し、その不均衡が結果として、充実という実感から私たちを遠ざけているのである。傾向として、実行力のある暴力を伴う表現は暴走的に拡大しており、そうでない表現は萎縮しているというのは、この問題に於(お)いて根源的である。
これと深く関連しているのが、例の「両論併記」である。今日これは、多様な意見を紹介して公正を期すというより、遥(はる)かにリスク管理の発想に基づいている。そのため、とても公論としての水準に達していない愚説までもが、まるでその資格を与えられたかのように紹介されることになる。
この質量を問わない多様な主張の併存は、無論、ネット空間の特徴でもある。そこでは、高度に専門的な論考から悪質なデマに至るまでが、必ずしも序列化されることなく棲(す)み分けを行っていて、SNSや検索を介して、世論形成に歪(いびつ)な影響を及ぼし続けている。
この棲み分けは、平和裡に安定しているというわけではない。折々局所的な論戦がなされてはいるが、その成果が統合されないが故に、新たに問題に関心を持った人は、方々で、極(ごく)初歩的な謬説(びゅうせつ)に引っかかり続けることになる。
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今、表現の自由にとって重要なのは、この野放図に膨張した争点自体を、直接的な討論を通じて縮減してゆくことである。原発事故、第2次大戦の歴史観、財政政策等、既に争点が過剰化している緒問題について、直接的な議論を行う場を設け、公論に値しないものは明確に否定し、継続的な議論が必要な問題にのみ争点を絞り込んでゆく。
既に現在、ネット上には様々(さまざま)な主張が寄せられる場があるが、その多くが討論型ではなく、寄稿された文章を「両論併記」的に並べたものであり、それでは結局、争点の健全な縮減は起きなかった。
そういう徹底した公開討論の場は、なるだけ一カ所に集約されていることが望ましい。その問題について議論する際には、誰もがそれをまず参照し、最低限の前提を共有する。それにより、議論の度に初歩的な誤解にかかずらう必要がなくなる。論拠として、その場での議論を参照できるならば、暴力的な炎上に対しても予防効果があるだろう。
新聞社がやるのか、どこかのウェブサーヴィスがやるのか。多くの閲覧者が期待できるので、商業的にも成り立つのではないか。
【略歴】 1975年、愛知県蒲郡市生まれ。2歳から福岡県立東筑高卒業まで北九州市で暮らす。京都大在学中の99年にデビュー作「日蝕」で芥川賞。近刊は作品集「透明な迷宮」、エッセー・対談集「『生命力』の行方」。
※次回は姜尚中さんの「提論」です
=2015/06/07付 西日本新聞朝刊=