少し前に書いた批評、
には普段の批評記事より多くの反応を頂いた。ネット中の注目を掻っ攫っている『スプラトゥーン』の実力と話題性には驚くばかりである。
ところで、『スプラトゥーン』のあまりに大きな影響力故か、ネットにおいて「”ステマトゥーン”乙」「どうせすぐ飽きるんだろ」といった不満の声と、それに一方的に反論する声が混ざり合う、大変カオスな状態が生まれている。
当然ながら、私は任天堂から金銭も何も受け取ってないのだが、改めて自分の記事を読み返すと、結構持ち上げてるのは確かだ。ここは一つ「仕掛け人」の一人として、何故ここまで『スプラトゥーン』が盛り上がったのか考察したい。
何故スプラトゥーンが優れているのか
スプラトゥーンは面白い。その確信は今も変わらない。
『CoD』、『BF』、『TF』、『CS』といった面々が占領した既に大きなマーケットにおいても、『スプラトゥーン』はそのユニークなゲーム性は燦然と輝いている。
そしてこびりついた血なまぐさいイメージを洗い流すかのような、イカと水鉄砲というクールなデザイン。(経済誌では「イカの水鉄砲」と呼ばれたそうな)
何より、「任天堂」や「国産」というブランド力の強さ。思想はどうあれ、自分の国から出たゲームが面白いなら、それに越したことはないし、話題にもなる。
とにかく、プレイしていてその一挙手一投足が新鮮だった。これは面白い、これは新しい、そして記事に書き起こしたいと思わせた。
一方、これだけ盛り上がった話題に醒めてしまう人もいる。そういう人は「すぐ飽きるだろ」とか「WiiUじゃなけりゃ買ってたわ」と言う。彼らは一体何に不満なのだろうか?
確かに、スプラトゥーンは間違いなく「すごい作品」だ。しかしそれ以上に、「語りたくなる作品」でもあるのだ。とすると、この話題性ばかりがインフレしてしまった結果、少なからずの人がこの「祭り状態」に違和感を抱いているのではないだろうか。
私もその一人である。
スプラトゥーンは「語りたい作品」である
インターネットはSNSの発達とユーザーの多様性が増大したことで価値を増した。人が集まり、何かについて話す。その口コミはやがて肥大化し、一国の政治をも揺るがすようになる。同時に、大企業や行政組織すらもネットに吸い寄せられる。
さりとて、社会に生きる人間は「語りたい生物」である。自分の好きなもの、感じたもの、怒ったもの、色々な話題を一方的に話せるサロン、それがインターネットだ。そして話題と話題はシナジーを呼び、利益のような現実的な数字となって現れる。
ゲームとて同じだ。ゲームの評価を決められるのは誰か?アカデミー賞か、ファミ通か、Rock Paper Shotgunか。いや違う、ネットにおける大衆の評価が何より有力だ。だからこそ、「話題性」は恐ろしい。
改めて『スプラトゥーン』について考えてみよう。本作の魅力は、優れたゲーム性やユーザーインターフェイスもさることながら、間違いなく「ユニークさ」が評価された。
何もかもが、「ありそうでなかった」ものである。イカのキャラクター、オブジェクトとガンファイトが融合したゲーム性、国産AAA級シューター。とても一人では語りきれない。だからこそ、人々は『スプラトゥーン』を語る。誰かが「なんてユニークなゲーム性だ」と褒めれば、誰かが「こんな直感的な操作性は初めてだ」と持ち上げる。
そして話題が話題を呼び、その肥大化した「話題性」がもたらす具体的な数字、つまり「アクセス数」「再生数」といったものを求めて、新たに動画投稿者やブロガーといった二次創作が押し寄せる。彼らが自分のブランドと絡めて作品の魅力を発信することで、再びバイラル効果は活性化する。
こうして、一つの「スプラトゥーン・ムーブメント」が起きる。そして、ムーブメントの一方で、単純に興味が無いなり、他のゲームに熱中してるなどして、そこから阻害された人々にとって面白くないと考えるのは自然だろう。
このように、現代のスプラトゥーンの持つ話題性は形成され、世論の中でもスプラトゥーンを巡るマイノリティとマジョリティが分離したと私は考える。
言うまでもなく、「語りたいゲーム」が生まれたこと自体は素晴らしい。それは間違いない。
それでも、ゲーム評価の主体がない現代において、一本のゲームでは考えられない程の話題性をかき集めた時、少なからず内実と評価の間にギャップが生じてしまう。そうした時、果たして公正な評価と言えるのだろうか。
語られないゲームはつまらない作品か?
このように、『スプラトゥーン』は個性に富んだ「語りやすい作品」であり、見事にネット世論を絡めとった。そうして、一人勝ちとも呼べる程に評価をかき集め、一方では「ステマトゥーン」などの不服な意見が生まれた。
一方で、「そもそも、話題のある作品に何の問題があるのか?」「単なる僻みではないか?」と考える人も多いと思う。
実際、『スプラトゥーン』そのものの価値を考えれば、任天堂の情報開発本部はユニークな作品を作ったことを誇るべきと思う。私は『スプラトゥーン』を「商業的にすごいだけで中身がない作品」と思わない。
それでも、インターネットという環境を利用するユーザーにとって、また面白いゲームを求めて口コミを利用するファンにとって、一本だけの作品が極端に注目を浴びることは面白いと思えない人がいるのは事実だ。
数多くの「すごい作品」の中で、「語りたいゲーム」がどうしても有利になるというのは、『スプラトゥーン』を鑑みれば理解してもらえると思う。ここで問題となるのは、「すごい作品」だけど「そこまで語りたいわけでない作品」だ。
例えば、『スプラトゥーン』を語る上で、代表的なシューターとして比較される『Team Fortress 2』や『Call of Duty』。これらが正面から語られる機会はどれほどあっただろうか。
この違いこそ、ここに『スプラトゥーン』が一部で呪われる「理不尽さ」の正体だと思う。そう、『スプラトゥーン』は「語りたくなるゲーム」であると同時に、「誰でも語れるゲーム」でもあった。
切り口はいくらでもあるし、新作だからネタが被ることを心配しなくていい。そして何より、既に構築されたブランド力を後ろ盾に、いくら褒めちぎってもいい。
一方で、『Call of Duty』が何故面白いのか語ることはとても難しい。既にシリーズ化してるのもあるし、「任天堂ブランド」のような確固たる根拠も見出しにくい。その結果として、ユーザーは抜本的なゲーム性に対する展望でなく、ごく小さな点を愚痴のように指摘するに留まらざるを得ない。
だが、少なくとも『CoD』がこれだけ売れるには理由があるし、また面白さもあると私は確信している(私は別段『CoD』のファンではないが)。既に何度か『CoD』の記事は書いたが、作品毎の工夫、抜本的なノウハウ、他で真似できない快楽性といった点で、シューターとして抜きん出た面白さがある。だが私自身、それを言語化するに至らなかった。
そもそも、マルチプレーのゲームを語ること自体簡単ではない。『Quake』、『Unreal Tounament』、『Battlefield』… これらが何故面白かったのか、何がどう新鮮だったのか、それすら語られることも稀有だったのは、「シューター」と呼ばれる対人戦がメインとなる作品に対して、どんなレビュー書いていいかわからないからだ。
スプラトゥーンが「語りたい作品」として人気を博する裏側で、確かに面白いんだけどい「語りたいと思わない作品」がひしめいている。故に、話題性という点で大きな格差が生まれる。
別に、私は「『スプラトゥーン』より『CoD』が面白い!」と言いたいわけではない。しかし、ゲームの面白さが多数の匿名によって評価される現代において、『スプラトゥーン』は「語られやすさ」から他のFPSとは比較にならない影響力を得た。
その結果、『スプラトゥーン』に評価が集まる現象が大衆ユーザーが主流を担うゲーム批評文化において顕著に現れ、あたかも「『スプラトゥーン』>他のFPS」であるような錯覚(少なくとも、印象には強く残るだろう)を思わせたのではないか。
或いは、その顕著な話題力により押し寄せたゲーマーが、具体的に『スプラトゥーン』から数多くの魅力を引き出した。そして、まだ魅力が言語化されていない他のシューターと比較した時、必然的に「『××』より『スプラトゥーン』は優れてる」としか読めないのである。
望まれる再評価
何度も繰り返すが、『スプラトゥーン』は素晴らしいゲームだ。しかし、「語りやすいゲーム」がインフレする話題性の裏で、「語られにくいゲーム」も存在するのも事実だと思う。
そして同時に、沈黙され続けてきたゲームが、本作のような「語りやすいゲーム」の引き合いに出されて「ああいうゲームより~」と半ば偏見のままに語られることは忍びがたい。要するに、イカのデザインもクールだが、『CoD』の兵士たちの意匠も開発部のこだわりを感じると言いたいのだ。
だからこそ、『スプラトゥーン』の活性化に乗じて、既存のシューターが再評価されることを願う。もしそうなれば、『スプラトゥーン』という正真正銘の名作が、ゲーム界におけるジョットとして評価されるだろうから。