ここのところ人生色々ございまして(←詳しくはメインブログをどうぞ)、のっけから更新が途絶えてしまいました(T_T)
そうは言っても、美術館には相変わらずこまめに足を運んでいたので、じゃんじゃんご紹介します! 当面はすでに会期が終わった展覧会のご報告が続き、展覧会情報としての価値はなくなってしまいますが、個人的な記録として載せておきたいと思います。同じ展覧会に脚を運ばれた方は、「こんなのもあったよねー」と思いだしつつお読みいただければと。
では、久々にいきまーす!
ふたつの仏像展
前回の記事では上野・東京国立博物館での桜の宴をお楽しみいただきましたが、その日の一番の目的は、同じく東博で開催されていた、ふたつの仏像展を観に行くことでした。
ひとつは、みちのくの仏像展@本館特別5室。
そしてもうひとつは、インドの仏展@表慶館です。
東北 vs インド。
いずれも、見慣れた感のある奈良・京都・鎌倉あたりの日本のメインストリームな仏像とはひと味もふた味も違って興味深かったのですが、個人的にはみちのくの仏サマたちに軍配を上げました。おめでとーございます!(←勝手な…)
と、いうのも。
そうは言っても、今回の特別展は点数も非常に多く、国内にはない希少なものも沢山あって素晴らしかったとは思うのですが、やはりどうも、インドのボン・キュッ・ブッバーーン!!な仏サマたちの超濃厚エロスに当てられっぱなしで、何が何やら疲れましたワタシ(-_-;)
他方、東北の仏像はというと。
実は意外と、お目にかかる機会はそうそうないんですよね。
仏像展をくまなくチェックしているわけではないので漏れも多いと思いますが、私が脚を運んだ範囲では、東北の仏像展といえば、2009年に世田谷美術館で行われた中尊寺金色堂の特別展くらいのもの。でも、平泉の釈迦三尊像は典型的な京都仏師の手による作風なので、仏像自体の東北ローカル感はあまりないですよね。
ところが! 本展は、「東北6県を代表する仏像が集結!」というキャッチコピーのとおり、ローカル色プンプンの見事な仏像が一堂に会する、貴重な展覧会でした。
会場の東博本館特別5室は狭いスペースなのですが、この部屋に入った途端に、東北の霊気がムンムンしていた気がするのは私だけでしょうか。
こーゆーことを言うと、いかにも地方のことを何も知らない都会人の身勝手なロマンティシズムであり、19世紀ヨーロッパのオリエンタリズムと同じようなものだと眉を顰める向きも沢山いらっしゃるであろうことは百も承知です。
それでも! やはり、ここに集う仏サマたちには、耳目を集め続けて生気を奪われ、「オレらやっぱ主流だしー、田舎モンと一緒にされても困るんだよねー」的な、スカした都(みやこ)の仏たちが失ってしまったサムスィングがある、と直感いたしましたのです!(←また勝手な…)
みちのくサムスィングの秘訣
では、東博本館特別第5室に満ち満ちていた、みちのくの仏サマたち特有のサムスィングの秘訣はどこにあるのでしょうか? 敢えて解説を読みこまずに独断と偏見で申しますと、それは以下の3つです!
秘訣その①:巨木に宿るエネルギー
ここに集った仏サマたちの大半は木彫像です。もしかしたら全部かな? 展示室に入ったとたんに、ウッディな香りがプーンと漂ってきましたよ。
しかも、代表的な作品の多くは一木造りが多いんですね。一木造りというのは、木材を組み合わせる寄木造りとは異なり、1本の木からそのまま彫り出す技法です。
さらに言うと、1本の木から彫り出しているにも関わらず、サイズが大きいんですね。つまり、かなりの巨木を用いているわけです。大きい仏像は、軽量化や干割れ防止のために、内刳り(うちぐり)と言って中身をくり抜いて空洞化してあることが多いのですが、今回出展されていた仏サマたちは、そのような処理もしておらず、何も塗らずに素地(きじ)のままの作品も多数。
その結果、巨木そのものが持つ重量感とエネルギーが、そのまま仏の姿となって立ち現われているのです。
たとえばこちら、宮城・給分浜観音堂の《十一面観音菩薩立像》(以下、画像は展覧会カタログを撮影したものです)。なんと3メートル近い高さで、実物はもの凄い存在感がありました。
この像は、給分浜という集落の高台に安置され、灯台のように遠くからでも目印になる存在であったのではないか、と考えられているようです。高台にあるために、東日本大震災でも津波の被害を受けなかったとか。土地の人々を見守ると同時に、土地の人々に守られ受け継がれてきた仏サマなのですね。
関東~東北では、仏教は山岳信仰と密接に結びつきながら普及していったそうです。洗練された都びとではなく、海や山に囲まれて暮らす人々の自然への崇敬の念が、一木造りの仏サマたちに込められているように感じました。
秘訣その②:ずんぐり、むっくり、がっちり。
狭い展示室のなかをぐるりと見回してみると、もうひとつ、多くの仏サマに共通した特徴があるように思いました。それは、プロポーションや相貌が、いずれもやたらとずんぐり、むっくり、がっちりしていること。
たとえばこちら、岩手・黒石寺の《薬師如来坐像》。
いかり肩で、全体に迫力がありますよね。ポスターには頭部のアップが掲載されていますが、ゴロンとした螺髪、落ち着いているけれど峻厳な眼差し、大きい鼻、肉厚な唇、そして深く彫り込まれた人中(鼻の下の線)と、これまた力強い相貌です。
ちなみに、日本を代表する如来坐像として多くの人が思い浮かべるのは、平等院鳳凰堂の《阿弥陀如来坐像》ではないでしょうか? 黒石寺の薬師サマは、なで肩で優しげなお顔立ちの、貴族文化を代表する平等院の阿弥陀サマとは対照的な造形です。
このほかの仏サマも、みやこの仏師の作風の影響を大なり小なり受けてはいても、どことなーく、がっしりとした体形と力強いお顔立ちに見受けられました。「田舎臭い」とも言えるけれど、中央への密やかなアンチテーゼでもあるのかな?
秘訣その③:個性☆炸裂!!
ハイ、もうそのまんまです。以下、お楽しみください。
まずはこちら、秋田・小沼神社の《聖観音菩薩立像》の頭部。
…んんん? 頭の上に何がいるのかって? それはコレ☆↓
???
えーと、これは出来損ないの雪だるまだよね? かまくらの脇にちょこんと居そうだよねコレ?
なんだかよくわかんないので、カタログの作品解説に頼りましょう。
観音菩薩の頭上には化仏(けぶつ)という小さな仏をつけますが、この像のそれは化仏というよりも雪国で伝承される子どもの姿をした雪の精、雪ん子を連想させるような愛らしさがあります。
なあーーるほど、雪ん子ちゃんね! アイシー。
えええええーー、ナニこの斬新なお衣裳は!?
プリーツプリーズ by イッセイミヤケじゃあないの!!
(画像はこちらから☆)
またまた解説に頼りましょう。
このように、彩色や漆箔を施さずに表面を荒い仕上げとする像は、現在確認されているだけでも数十体にのぼります。かつては未完成と評されましたが、平安時代の作風を示すものが多く、その大半が関東から東北にかけて伝わること、顔や衣など部位によって異なる仕上げを選択しているものが多いことから、今では造り方の一つとみなされています。表面の荒い仕上げにちなみ「鉈彫」(なたぼり)というのが一般的で、この観音像は最も優れた作として知られます。
ちょいちょい、未完成なわけないじゃん、ムカシの研究者のみなさん! この完成度の高さ、今回展示されていた仏サマたちのなかで随一の出来だよ!!(マチ子評)
こちら↓のモノクロ写真を見るとよくわかりますが、肩からはショールのような衣が自然と垂れ落ちているのに対し、体を覆う衣装は、腹部のふくらみに沿って隆起しています。足元の方も、裾の生地が脚にふわりと優しく纏わりつきつつ、両側に広がっています。
何度見直してみても、丸みを帯びて非常に均整のとれた観音サマの肉身が、 プリーツプリーズ by イッセイミヤケを心地よく着こなしていらっしゃるようにしか見えません!
平安のみちのくにはあったのかなあ、プリーツプリーズ…。
☆お買い物☆
みちのくパワーに気圧されて展示室を出たあとは、ショップにてみちのくの物産品を買いましたよもちろん!
じゃーーん。
あれ、宮城ばっかりだった(^_^;)
牛タンペッパーと燻製かきは、ビールのお供に最適でした☆ 爪楊枝がついてるところも気が利いてるじゃあないの♪
ふかひれスープも、思ったよりシッカリふかひれが入ってましたよ(^^)
さて、いかがでしたか? 中央とは明らかに異なる個性を持った、みちのくの仏サマたち。いつかぜひ、それぞれが日ごろ安置されている場所で、その土地の自然や空気と一体となったお姿を拝見したいものです。