※ただの個人的主観による雑文です
※極力平易に書きましたが、固いのでマニア向けかと
白い蓬髪を振り乱し手に持った大鉈を振るうたび、毒爪を振りおろそうとする小町に棲む妄鬼が切り裂かれ、内臓をぶちまけ倒れていく。
大鉈はその都度、小町の魂を啜り手の中でむせぶ。
「アザナエル!アザナエル!オリーブオイルの王アザナエル!御身に小町共の魂を捧げん!」
トピシュは叫び、大鉈が啜る小町の魂は深き闇への貢物と化す。
「己の信徒を援けたまえ!」
鉈を振るい一人を倒しても次が現れ、再び鉈でなぎ払う。
死を恐れぬ小町の妄鬼は、倒れても倒れても屍がうずたかく積もれど襲いかかり続ける。
トピシュの全身は、小町の返り血で、蓬髪も赤黒く染まっている。
ふと気付くと、中天に輝く太陽が雲に陰っていた。
いや、よく見ればそれは雲ではない。
漆黒の雲に見えるそれは無数の虫だった。
虫は、羽音をたて小町の群れへと波打ち落ちてきた。
虫の顎は小町の肉を裂き、屠り、骨を砕き、飲み干し、一瞬で小町を無に帰してゆく。
一匹の巨大な軟体動物にも見える虫の大軍になす術なく小町は呑まれていく。
塵は塵に、灰は灰に。
悲鳴すらあげる間もなく小町は消えゆき、周囲は羽音で満たされた。
虫の一匹が、トピシュの眼前に飛び来る。
醜悪な人間の顔を付けたハエ。トピシュにはそう見えた。
虫が嗤う。
「idコールあったんで来ましたけど?何か??」yuki3mori.hateblo.jp
トピシュ (id:topisyu)
面白い企画ですね!
読書家ではないですが今度書いてみます。
ついでに自分が読書家だと思っていて、この企画で凄まじいアウトプットを出してくれるだろうブロガーさんを呼んでおきます。
id:zeromoon0
id:paradisecircus69
id:bambi_eco1020
id:kimaya
※順不同
コメ欄でidコールされたのでアリオッチっぽく召喚されてみました(掌編はあくまでイメージです)。
特に読書家だとも思っていませんが。
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書きわけは別に構わないんですが、まず前提として書評、読書感想文、などの定義が曖昧な印象がある。
特に書評と言うもののハードルがずいぶん下がっている、
と言うか今世間で読めるものの中に”書評”と呼べるものはほとんどない。
あくまで個人的意見ですが(外山滋比古氏も「読み」の整理学の中でそんなことを書いていた気がするが)。
では書評とは何か。
物語をめぐる物語
まず「物語とは何か?」から始めます。
物語とは「読者の情動に訴えかけるための文字によるプログラム」です。
ところで西野カナの歌は「共感できる」から素晴らしいのだそうです。
でもだとすればそれ以外の要素はどうなんでしょう。
共感できる歌が素晴らしいのなら、共感できない歌はダメなのか。
歌詞に共感できない=ダメな歌だ
表層的な受け取り方しかしない、歪んだ主観であればこれも正しいでしょう。
小説で言えば「泣けない、感動できない小説はダメ」と言うのと同じこと。
共感は「物語」が産んでいる。
歌には曲があります。
声があり、歌詞があり、メロディがあり、リズムがある。
それらの多重に層をなしたミルフィーユのようなものを全てひっくるめて「歌」と呼ぶ。
しかし「共感」しかないのであれば、歌に含まれる「曲」や「音」は副次的なものでしかない。
歌 | 物語 |
歌詞 | 文章 |
声、音、演奏技巧 | 文章技術 |
メロディ、リズム | 構造 |
ざっくり小説と歌を比較してみる。
※あくまでイメージです
「共感した~」と言う感想は、小説を読んで「感動した~」と同じ。
そこに文章の技巧や物語の構造に関する考察がない。
歌以外の「言葉で書かれていない部分」が欠落しているのに近しい。
一番上の文章が生み出す「物語」だけを読みどう思ったか、を語るのを感想文と言う。
キャラクターに感情移入する、ストーリーに感動する。
あのキャラが、あそこが盛り上がった、あれが凄かった。
物語としてどうなのか?と言う視点が欠落している。
構造として余分なものはないのか?
文化的な位置や、同種の作品と比較し、今の時代に書かれた意味性は?
だから感想文は素人でも書ける。
共感共感、感動感動と連呼する女子を嗤えない。
書評
さらに文章、文章の技術や物語の構造、さらには他作品との連想や影響などメタな視点を持ち文化的なレベルと結び付け語る。
それぞれの複数レイヤーを把握し、物語の構造的な巧緻なども考える。
それを「書評」と呼ぶのだと思う。
書評とは書、文章コンテンツに対する批評。
単なる感想とは異なる。
体験を意識に再現して対象化し,ある規準に基づいてそれに価値判断を下すこと。この判断には規準そのものの検討も含まれる。これは人間活動のすべての面に適用されるが,特に文芸を主とする広義の芸術に向けられるとき多彩な形をとり,たとえば M.アーノルド,T.S.エリオットの系列にみられるように,文明批評をも含む幅広いものともなる。
ややこしい書き方をしてますが、この”ある規準に基づいてそれに価値判断を下す”と言うところが重要になる。
単に誰かに本を勧めるだけならそれは宣伝広告と変わらない。
どう思ったか書くだけなら感想文と同じ。
書評の「評」は批評の「評」
ですから個人的主観は否めなくとも外部的要素を鑑みた基準を一定させ、その基準でもって物語に対し価値判断を行い、文章として書き表す。
これが書評ではないのか、と。
とすれば、日々多く書かれる中で、書評と呼べるものはほとんど見かけない。
暗喩
古池や蛙飛びこむ水の音
松尾芭蕉の句だが、この最小限で造られたワードから世界を広げ詠みとる嗜好を詩歌と呼ぶ。
物語であれば、描かれていないことを描写から読みとるのを暗喩と呼ぶ。
キム・ギドク「弓」と言う映画がある。
この映画は表層的に見れば「変態老人が船の上で少女と共同生活をする話」にしか見えない。
変態老人、気持ち悪い。
時間の無駄。
しかしここに宗教的な意味性を読みとれば「船は神殿であり、老人が神官、少女は巫女」という暗喩が見え物語は全く変わって見える。
「源氏物語」のような少女監禁から結婚へという話かと思いきや、または「ピグマリオン」から生まれた「マイフェアレディ」のような少女の側が裏切るほどに成長する話かと思いきや、老人がその船の精のような神様だった(たぶん)というオチ。「源氏物語」や「マイフェアレディ」ではなく「処女懐胎」。三角関係のなかに神様が混じっているのを「弓」という巧みなメタファーで描くギドク監督ならではの奇妙な映画です。
老朽船の神様 - ユーザーレビュー - 弓 - 作品 - Yahoo!映画
同じ物語を見て、表層的な部分しか読めないひとはとても多い。
物語が描くのは、文字として描かれているものだけではない。
描かれていないものを描く、描かないものを描く、描けないものを描く。
そういう物語もあるし、それを読めないならどこまでも評論気取りの感想文しか書けない。
それを読みとり、考えることも批評のひとつだろう。