開沼さんの「動機」に思いを馳せた
開沼博(以下、開沼) 糸井さんとは初めまして、なんですよね。
糸井重里(以下、糸井) はい、よろしくお願いします。
開沼 わたしもこの4年間で200回くらいの講演をやってきて、こういう場は慣れているつもりなんですが、ちょっと今回は勝手が違うぞ、と(笑)。
さっき糸井さんが控え室に入ってこられたときも、「あっ、ほんものだ。子どもの頃からずっとテレビで見てきた人だ」と思いましたから。非常に緊張しております。
糸井 ほんとですか?(笑)
開沼 はい。そんな感覚の中なので、大変恐縮なんですが今回、わたしの『はじめての福島学』について、まずは糸井さんの率直な感想をお伺いしたいのですが。
糸井 そうですね。ぼくも書き手のはしくれなので、本を読むときにはその人が原稿を書いているときの速度とか、姿勢みたいなものを感じながら読むことが多いんですね。それでこの本は「しゃべりことば」のかたちをとっている。まずはそこに、つまり「なぜこのスタイルだったのか?」という動機の部分に思いを馳せたんです。
開沼 動機の部分?
糸井 ええ。そこにある、開沼さんの「なんとか伝えたい」という思いと努力に、頭が下がったんですよ。つまり、福島の問題を本として語るのは、とてもむずかしいんです。読者が疑問を感じるであろう場所、疑問を感じるであろうタイミングで、その都度「こう思いますよね? でも、それってこうなんですよ」という、対話のようなやりとりを入れ込んでいかないと、とても通じる話じゃない。その思いがあって、あえてこのスタイルにしたんだろうと思ったわけです。
これって「書きことば」ではできないんですよね。「しゃべりことば」だからこそ、読者が感じる「ちょっと待った」や「それってなあに?」の声が、あたかも聞こえているかのように書けるわけで。
開沼 なるほど。
糸井 だから、開沼さんはご自分のことばを聴いている読者の「耳」を想像しながら、あるいは「声」を想像しながら、語りかけるように書いていった。これはものすごく不自由だし、たいへんなことだけれども、それをやりきった。もう、それだけで読まなきゃいけないな、という気にさせられました。動機のところに「一発当ててやろう」ではない、「このことを知ってくれないと困るんだよ」という痛切な思いが感じられたんで。まずは、それがなによりの感想です。
開沼 ありがとうございます。ほんとうにおっしゃっていただいたとおり、「伝えなければ」がいちばんの課題でした。福島については、放射線の問題とか、産業の問題、雇用の問題など、さまざまな問題があるわけですが、そのさらに一段上の問題として「そもそもこれ、伝わってねーじゃん」という大問題があるんです。
糸井 ありますね。
開沼 伝わっていない、という事実に対して、メディアは「もうちょっとセンセーショナルな見出しが必要だったのかな」くらいに考える。学者は「受け手の理解不足、勉強不足だ」で終わってしまう。でも、たぶん問題はそこじゃないだろう、というのがこの本の出発点でした。
糸井 そうだと思います。
ヒントは実況中継シリーズの受験参考書
開沼 それで2012年~2013年くらいから、徐々にこういう本をつくりたいなあと思っていて、最初は「福島を知るための10の数字」みたいな、できるだけキャッチーでありつつもお手軽な本にしようと考えていたんです。福島のことが30分でわかる、とかですね。
糸井 はい。
開沼 結果的に、この『はじめての福島学』では冒頭に「福島を知るための25の数字」というものを掲げることになったとおり、要素も増えて「お手軽さ」は減ってしまったんですけど。イメージしたのは、受験参考書だったんですよ。
糸井 へえー、参考書。
開沼 受験参考書の実況中継シリーズという、講義をそのまま書き起こしたような本がロングセラーになっていて、これが実際読みやすいんです。最初に問題を提起して、講師が延々としゃべっていく。受験に関係ないような雑談も、理解に役立つのであれば、かまわず入れていく。福島についてもこういう形式で誰かやったほうがいいんじゃないか、と考えていたタイミングで、ちょうど糸井さんと早野龍五先生の対談形式による『知ろうとすること。』が出版されたんです。
糸井 なるほど。
開沼 だから、うれしかったですよね。福島についても、ようやくこういう本が出てきてくれたんだと。その上で、『知ろうとすること。』の、あの重要な内容が多くの人に分かりやすく伝わる対談に加えて、まだ語っておくべき部分もあると改めて思ったこともありました。そんな思いで、わたし自身は講義形式のようなスタイルの本を書いたんです。
糸井 この本の背景にあるのは、さっき開沼さんがおっしゃった「この4年間で200回くらい講演会や勉強会をやった」の経験やリアリティだと思うんです。こういう話をすると、こう返してくる人がいる。こんな数字を出すと、ここに突っ込んでくる人がいる。あるいは、遠くでごにょごにょ騒ぐ人がいる。そのへんぜんぶについて「おれは一回考えて、くぐり抜けてきたんだよ」という、経験に裏打ちされた自信がある。
だから、文体の根っこにある「伝えたいこと」の部分が、しっかり読み取れるんですよね。本を書いているなかで、新しいことも言いたかったでしょうけど、どうしてもパターン化した問いと答えのほうが増えていったと思うんですよ。その「出し切っているもの」を、もう一度書こうと決意した本に見えたんです。
開沼 おっしゃるとおり、途中までは「もうこれは一回言ったからいいや」と思って、外していた話もあったんです。学問って、どうしても新奇性を追求してこそ評価されるものだし、それが楽しい部分でもある。だから、学者としては不本意なところでもあるんですけど、同じ話を何度も発信していかないと伝わらないことにも向き合っていく必要があることも認識したんですね。その意味で、パターン化した答えをくり返すジレンマを引き受けながら、その壁をどう突破していくのか。そこはすごく意識しました。たぶん震災があって、福島の問題に出会わなければ、学者としてこんなことは考えなかったと思います。
切れ味よりも大切なもの
糸井 開沼さんみたいに若くって、しかも学者であるというふたつの要素があると、切れ味の鋭さみたいなものが職業的な売りにもなるわけですよね。
開沼 そうですね。
糸井 一方、学問として闘っているようでありながら、大衆というものを前にした御前試合が絶えずおこなわれている、という状況もあって。
開沼 ええ。
糸井 そこではみんな「速い」とか「鋭い」だとかの、腕自慢みたいな争いをやってるわけですよ。正直ぼくは、もうその力比べには飽きてて。やっぱり人って「じゃあ、やってみろ」となったとき、実際になにができるのか、を見ていると思うんです。とくに震災以降はそうなってきた。口先での鋭い切れ味と、実際にそれが「使えるもの」なのかっていうのは、ぜんぜん違うんですよ。
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