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ゲーマー日日新聞

ゲーム世論から作品の批評まで揃え、海外記事や他の文化の視野も取り込みつつ、ゲームの面白さを掘り下げる記事を描く。

他人に「ゲーム」を馬鹿にされた時、真っ先に突きつけるべき言葉

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「ゲームって暇潰しでしょ?何がそんなに面白いの?」

率先してゲームが趣味だと公言するゲーマーは少ないだろうが、何気ない会話の流れで、こんな台詞を聞いたことがないだろうか。私はその度、こう思う。

 

「本当に面白いゲームを遊んでよ。」と。

 

そう、面白いゲームを遊んで、感動し、記憶に焼き付けてもなお、ゲームを馬鹿にする人はそうはいない。

私はゲームを好まない人を非難しているわけではない。こんな話はゲームに限らず、どんな趣味にもある。例えば海老が苦手という子供に、旅行先で新鮮な海老を食べさせたら、すっかり好物になってしまうように。

(ここで例に挙げたのは、必ずしもゲームに無関心な人物ではない。むしろゲームファンの中で、自嘲的にゲームをこき下ろしたり、或いは世間への敵意をむき出しにしてゲームを正当化する人もいる。そういう人にこそ、あえてこう言いたい。)

 

面白いゲームとは何か

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先述した内容を言い換えると、私にとっての「面白いゲーム」とは、「ゲームって暇潰しでしょ?」と思うほどゲームに無関心な相手にも、自信を持って推奨できるゲームということだ。

そこで問われるのは、まず第一に普遍性である。時間的、文化的、競技的に、あらゆる障害が存在せず、それでいて遍く通用する魅力。映画にしろ小説にしろ、名作と評される全ての作品が持つものだ。

その点では、『スーパーマリオ』や『ゼルダの伝説』といった任天堂の作品は圧倒的で、PCゲームにおいては、やはり『Minecraft』ほどに普遍的な作品はないだろう。『S.T.A.L.K.E.R.』や『PORTAL』も捨てがたく、マルチプレーという点では、『Legends of League』や『Counter Strike』は驚異的な作品と言える。

 

だからこそ、私はこのような傑作に出会った時、頭をガツンと殴られたような衝撃を受ける。

このブログで紹介した作品だけでも、『Dear Esther』『Bloodborne』『Alan Wake』は正にそれだ。もし「ゲームに飽きてきたかな」と思っていたとしても、彼らのような上質な作品に出会う度に、驚愕し、動転し、そして感服する。こんな作品は滅多に出会えないが、それだけ待つ価値は十分にあると、何度でも思い返せる。

ゲームの中には、明らかに「名作」がある。客観的に面白いと断言できる、その魅力をいつまでも語っていられるような、瞭然たる質量を持つ作品が。だがそんな作品は10本、いや20本に1本も出会えない。「たかがゲームで」と言われた時、胸を張って反論できる作品と巡りあえた時、私はゲームが素晴らしいものだと気付いたのだ。

 

面白くプレイするとは何か

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とは言え、私が奨めた作品が必ずしも読者全員に賛同されるものになるとは思えない。

何故か。それはプレイヤーもまた多様な人がいるからだ。

ゲームのレビューを書く人間がこんなことを言うのは、些か衒学的すぎるとは思うのだが、私は「名作」を真に名作と受け取ることは決して簡単なことではないと思う。

例えば、ドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』。それはあらゆる知識人が感銘を受けた名作だが、今まで全く小説に触れてこなかった人間が突然読んでも、作品を楽しむどころか、むしろ退屈なだけだろう。

それは当然である。カラマーゾフの兄弟を理解するには、難解な文章や高度な表現を解する言語的センス、異国における民族的・宗教的な精神に通ずる広い視野、19世紀のロシアにおける歴史的背景や西欧哲学の知識と、名作相応のキャパシティを求められるからだ。

もちろん、名作の普遍性を持ってすれば、これらに一切興味がなくとも楽しむことは出来よう。だが、「普遍的な魅力」とはピラミッドのようなもので、その広大な魅力とは裏腹に、真に愛される中核にかけては、あまりに分厚く、あまりに崇高なのだ。

 

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(格ゲーを「面白い」と思えるようになるには、相当の練習が必要になる)

 

当然ながら、同じような困難がゲームにも見られる。

いくら『Quake』が面白かろうと、『Counter Strike』が奥深かろうと、実際に楽しいと思えるようになるには、相当な練習を経てからだ。また、競技としての難易度もそうだが、『The Elder Scroll: Skyrim』の事細かな世界観への配慮や、『The Vanising of Ethan Cater』の美麗な芸術を理解するのもまた、相応の情熱と理解が問われるだろう。

確かに、これらの普遍的な名作はパッと遊んでも楽しいに違いないが、一般的なゲームへのスキーマを覆し、素晴らしい作品への恭順に至るには容易なことではない。

もちろん、単なる知識や情熱より重要なものとして、自分自信が培ってきた個人的な経験や好みも重要だし、本気で何かを味わう熱苦しい情熱は、小難しい知識などより遥かに自分の趣味を盛り上げてくれる。

 

いずれにせよ、ゲームがインタラクティブなメディアである以上、面白いゲームには相応のプレイヤー側の姿勢、あり方が問われるはずであり、それを考慮せず自信たっぷりに「面白いゲームだった」と、他人に断言するのは難しいだろう、ということだ。

そして同時に、世間で(このブログで)「神ゲー」と持ち上げられた作品であっても、それを理解するのはプレイヤーの好みや、或いは成熟度次第であるから、世間の「神ゲー」「クソゲー」の定義に合わなくても、何らあなたの感性はおかしくないと言える。

(言うまでもなく、筆者もまだまだ、作品を「理解」すべくリテラシーを豊かにする努力が不足していると自覚している。)

 

 

 

結論から言って、本当に心の底から「面白かった」と感心し、喜べるような作品と巡り会えた時、私は「ゲームを遊んだ」経験をとても誇らしく思える。自分が間違いなく「リア充」であると断言できる。

逆に、面白いゲームに触れたことのない人が、ゲームに懐疑的な印象を抱くのは当然であろうし、大して面白くもない作品を遊べば「何やってんだ俺」「また休日を無駄に過ごしたな」と冷めるのは仕方ないことだ。(ゲームに限らず)

 

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(私が『ダークソウル』をプレイした時は、その充実感と作品の完成度に酔いしれたけどなぁ)

 

あまりにありきたりな結論になってしまったが、ゲームというティピカルな文脈では、些かこの根底的な視点が欠けていたように思う。ゲームを遊ぶのに建前はいらない。「ゲーム」という概念で捉える事自体、マクロなようでとても小さい。

だからこそ、あえて「本当に面白いゲーム」を突きつけることや、それに出会うことも、また楽しむことも本当に難しい。だが、行きつけのラーメン屋を発掘した感覚で、こだわりの一本を見出した時、その人はもっとゲームが好きになっているはずだ。

それに、このブログでも作品を紹介しているので、こんな拙筆でも、その一助となれば幸いである。

(ともあれ、大して仲良くない人には、適当なソシャゲが好きだと答えるべきと考える次第である。)