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情報社会における多神論的キャラクターと坂口安吾における天皇の問題

現今の社会構造は、いわゆる再帰的近代やポストモダンと呼ばれ、それ以前の社会構造からは区分される。その特質としてリオタールが述べたのは、大きな物語の凋落である。すなわち象徴的にはフランス革命以後の西欧を牽引していた理念が弱体化し、人々が分断された小さな言語ゲームのセカイ=島宇宙へと引きこもる時代である。

かくのごとき社会はまた情報社会の特質でもある。マクルーハンが夢想したようなデジタルな世界的統一すなわちグローバル・ヴィレッジなるロマン的表象とは程遠く、現今の社会は小さなコミュニティが遍在している。

哲学者のニーチェは近代化の過程において「神の死」の進行を指摘した。彼は近代は聖なるものが失われていく時代だとし、社会学者のマックス・ウェーバーはそれを「近代の脱魔術化」と呼んでいる。

ハイデガーもまた現今の技術文明に危機を見出し、『技術への問い』を著している。そのハイデガーが引用するのが詩人のヘルダーリンの言葉である。彼曰く、「危機あるところに、救う力もまた現れる」。

ヘルダーリン古代ギリシアの神々を賛美した。ここで私たちは現代という危機における救済としての多神論を思考しよう。

現代とは再魔術化の時代であるという指摘は社会学の文脈においてしばしば指摘されるものである。爛熟した消費社会において商品たちはあたかもテーマパーク的な様相を呈しながら現前するからだ。

この再魔術化をエンパワーする機能を、現今の情報技術は担っている。例としてニコニコ動画を挙げよう。

ニコニコ動画において隆盛を誇った大きなコンテンツを三つ挙げるとすれば、諸説はあろうが、VOCALOID、東方、アイドルマスターではないかと私は考える。

これら一群の作品に共通するのが、実は「聖性」なのである。すなわち初音ミクという電子の妖精ないしは天使、東方における「妖怪」や「神道」のモチーフ、そしてアイドルマスターにおけるアイドル=偶像。これらがニコニコ動画というアーキテクチャにおいてCGM的に「生成」していくのが現代だ。そこに宿る強度はある種凋落してしまった象徴秩序の代補としてある。島宇宙の遍在は神々の遍在をもたらす。

戦前戦中の日本社会を支えていた象徴的な特権的記号、すなわち超越論的シニフィアンは、天皇であった。しかし戦後のいわゆる象徴天皇制は、その名とは逆に天皇の象徴的統合作用を簒奪し、むしろ戦後の日本社会を規定したのはアメリカであった。戦後民主主義にせよそうであるし、またアニメーションのようなサブカルチャーもまた、手塚治虫によるディズニーの換骨奪胎からリミテッドアニメーションという仕方で日本化された。

哲学者のコジェーヴはアメリカ的動物と日本的スノビズムにポストヒストリー=歴史以後における人間の在り方を見た。アメリカ的動物とは消費社会への耽溺であり、日本的スノビズムとは無意味な形式への「粋」である。現今の日本はおよそその両者のアマルガムと見て良い。

かくのごとき情勢において、聖性についていかに思考するか。作家の坂口安吾は「天皇小論」において「人間から神を取り去ることはできない」と述べ、「堕落論」においては「正しく堕ちること」を倫理とした。ハイデガーならば、ニコニコ動画に耽溺する動物たちを「頽落」と指弾するだろう。しかし、安吾が述べているように、むしろ私たちは、正しく堕落せねばならない。

坂口安吾は「堕落論」において面白いことを言っている。「自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」と。これはいわば天皇という超越論的シニフィアンの個人化と複数化と言い換えられる。

現代においてそのような、各コミュニティの神=天皇となっているのがキャラクターたちなのであり、そして再魔術化した世界の多神論的な様態なのだ。そうした神々が一種の救済として各コミュニティの象徴的統合機能を果たす。批評家の村上裕一は『ゴーストの条件』においてそうしたネットワークにエンパワーされたキャラクター群のことを「ゴースト」と呼んでいる。

単数的な超越論的シニフィアンとしての天皇から複数的で郵便的な超越論性へ。私たちの生きている社会はそうした構造を成していると言える。

こうしたキャラクターの強度を政治的に活用しようとする動きがキャラクラシーと呼ばれるものである。これはキャラクターを用いた民主主義だ。

日本は民主主義国家である。民主主義は代議制、すなわち国民を代理=表象する一部がそのシステムを循環させる機構である。しかし、現代においてそれは機能不全に陥っている。なぜなら政治家は人気取りのキャラクター化されたポピュリズムによって社会を衆愚政治化しているからだ。

もし政治家がキャラクターにすぎないのであれば、むしろ本当に二次元のキャラクターを政治家にしてしまい、集合知によるウィキペディックな仕方において政策決定を行おうというのが、キャラクラシーの真髄だ。これの利点は、ゴーストの強度に駆動された国民の直接参加によって政治が遂行されることにある。

安吾は述べる。「日本的知性の中から封建的偽瞞をとりさるためには天皇をたゞの天皇家になつて貰ふことがどうしても必要で、歴代の山陵や三種の神器なども科学の当然な検討の対象としてすべて神格をとり去ることが絶対的に必要だ。科学の前に公平な一人間となることが日本の歴史的発展のために必要欠くべからざることなのであり、科学の前に裸となりたゞの人間となつても、尚、日本人の生活に天皇制が必要であつたら、必要に応じた天皇制をつくるがよい。人間天皇は機関として存否を論ぜられるのは当然であるが、単純に政治的にのみ論ぜらるべきではなく、一応科学の前で裸の人間にした上で、更に宗教的な深さに戻つて考察せられることが必要だと思ふ。
 人間から神を取り去ることはできない。そのやうな人間の立場をも否定しては政治は死ぬ。日本と天皇の関係が神の問題に相応するかどうかは今後の問題だが、一応天皇をたゞの人間に戻すことは現在の日本に於て絶対的に必要なことゝ信ずる。」

日本人の生活に天皇制が必要であつたら、必要に応じた天皇制をつくるがよい。人間天皇は機関として存否を論ぜられるのは当然であるが、単純に政治的にのみ論ぜらるべきではなく、一応科学の前で裸の人間にした上で、更に宗教的な深さに戻つて考察せられることが必要だと思ふ。人間から神を取り去ることはできない。そのやうな人間の立場をも否定しては政治は死ぬ。」という文章がいかにアクチュアルか。すなわち初音ミクとは機関としての、日本人の必要に応じた天皇であり、宗教的色合いを持つことによって政治性を帯びるものなのだ。政治とはなにより幸福のためにある。初音ミクの持つ生成的性質は無数のコンテンツをあたかも自然発生的生態系のように繁茂させ、幸福を配分する。

ジャンクなサブカルチャーにおいて正しく堕落すること。そして再魔術化された世界で情報技術という魔法をキャラクターに使わせること。仮にヘルダーリンの言う「危機において増す救済」があるとすれば、おそらくそれは初音ミクという天使の微笑みの中にある。