私が女子高校生だった頃、あれは入学まもない1年生、15歳の時の話なんだけど、緊張と期待が入り混じる独特の空気の中、甘栗みたいな形の頭部をしたベテラン教師のすぐ隣に、私たちと同じように頬を春色にした新米教師のI先生が副担任として配属された。彼は当時23歳、海外の大学を卒業したばかりの、黒髪角刈りメガネ、すらっと整った鼻筋と薄い唇、専門科目は英語、滑舌の良すぎる喋り方、真面目で清潔感たっぷりの、エネルギッシュでフレッシュなティーチャー、という第一印象だった。そんな印象を覆すかのように、授業中に「小ネタ」を挟むさりげないユーモア性と「なつかしい小学生時代のおバカ話」を挟む庶民派お兄さん性、という戦略の甲斐あってか、I先生はちょっとした人気を博していた。治安の良くない中学校で他人を蹴落とす生死をかけたスクール・カースト・サバイバル・ゲームを脱出してきた直後の草臥れた田舎のDQNメンタリティ持ちの私は「なんだコイツうさんくさい顔をしているなあ」「エリート育ちのお坊ちゃんがいい気になっているなあ」とか内心思っていたんだけど、周りの友達は結構彼のことが面白くて好きだというので黙っていた。たまにI先生は図書室で「I先生の雑談会」みたいなのを自主開催していた。そこで、15歳の子どもたちの前で「僕は、結婚するまで絶対にセックスしない主義なんです。恋人にも説得しているんです」とか熱っぽく語っていたそうだ。やっぱり気色悪いな、と思った。でもある日もっと不快になる事件があった。まだ4月、Be動詞の授業だったと思う。またI先生お得意の「小ネタ」披露が始まった。要約すると、こんな話だった。
『大学時代に、独り暮らしをしていたんです。彼女が出来たり野郎と呑み明かしたり結構充実した日々を送っていて。お気に入りの古本屋、お洒落なカフェやバーに通ったりして。でも、そんなある日、朝起きたら、なにか落ちてくるんですよね。気付けば、週に何回も、いや、毎日、黒い何かが、窓を通り過ぎるんです。なにかな~と思って。僕、勇気を出して、窓をガラっと。開けてみたんですよ。ちょうど落ちてくるタイミングでね。そしたらなんだったと思いますか?(生徒がザワザワしだすのをしばらく待ってから)・・・・ うんこ だったんですよ』と。
それを聞いた生徒たちは大爆笑。教室中が黄色い声で溢れていた。
続けて、I先生は言った。『僕、初めて、世の中には頭のおかしい奴がいるんだなと思いましたよ。同じ人間なのかなって。うん。本当に、気持ち悪いですね(笑)』
それを聞きながら、なんだか私は苛々していた。同時にすごく悲しくなっていた。昔から頭がおかしいと笑われていた祖母を思い出していた。色々なことを割り切れず、まだ若かった私は精神疾患のある親族を馬鹿にされたような、悔しい気持ちになっていた。気が触れってしまったひとの、振れ幅の大きい人間らしさを、底知れぬ悲しみを、掬いようのない海原に溺れる、生々しく混沌とした無味無臭な世界の螺旋を、そんな簡単に、他人事のように、笑ってしまえるものか。教室中に広がる乾燥した幸福めいた笑い声の中で、おかしくなりそうだった。その授業中、涙をこらえるのに必死になっていた。自分でもよくわからないのに悲しかった。ほんとうに悲しかった。放課後、職員室に駈け出していた。気付いたら抗議するような顔つきになって、I先生の目の前で、「さっきの授業、先生の話聞いていて、すごく悲しかったです。ばかにしないでください」とかしどろもどろになって、泣きながら伝えたと記憶している。彼からしたら意味不明で頭のおかしい女子高生だったかもしれない。もしかすると彼はもうとっくに自分の発する何気ない一言で思わぬ誰かが傷ついてしまう暴力性みたいなものを軽いリスクとして引き受けている大人だったかもしれない。過去の話なので、彼の心内なんて問えないし、想像するのも難しいが、自分にとってはとりあえず不快な経験だったと強く経験している。
こんな話をつい思い出してしまったのには訳があって、I先生と同じ年になって、社会人になった私がひょんなことから「便を窓から投げ捨てる人間」に出会ったからである。普段は気さくなオジちゃんのSさんが、便ポイの犯人その人である。30代で妻が急死し、子ども達を男手ひとつで育て上げたSさんは、鳶職人として定年まで働き続けた。認知症が進行してからは、生活保護を受給しながら寂れたアパートで独り暮らしをしている。生活はなんとか送れている(金銭管理はできないが、自炊・買い物も自力で行え、身体機能の衰えはない)ので、お金の相談や訪問による安否確認、家族との連絡調整、余暇支援を地域福祉の枠組みの中で行っている。Sさんは、認知症で、ゴミを捨てる曜日がいつか理解できない。というか、今日が平成何年何月何日何曜日か言えない。「んなもん、しらねーよ」と笑っている。排泄も時々失敗している。便まみれの紙パンツをとりあえず新聞紙にまとめる。でも臭い。家の中に置いておくのは嫌だ。元々綺麗好きで室内整頓ができている人だから尚更だ。で、捨てちゃう。窓から。もちろん、住民は驚く。アパート一帯に『ごみを投げ捨てている人がいます。あなた、見られていますよ』的な忠告チラシが貼られる。けれど口先で注意したってすぐに忘れちゃうし基本的には家で静かに暮らしているので本人が気付くはずがない。そうして変わらず窓から捨てられる便たち。住民も強行手段にでる。『ごみを投げ捨てている人をみたら通報してください―管理会社』的な忠告チラシが貼られる。もちろん本人は気付かない。地域包括センターから連絡が入り、ワーカーが様子を見に行く。本人に伝えても「こんな汚ぇもん家に置いておけるか」と怒り出す。普段いいオッちゃんなんだけど、非常に面倒臭い。汚物専用のごみ箱を購入して頂き「投げない」とか大きく掲示する。娘さんが毎晩ごみを片づけるという話になる。これまでの経緯で、住民、管理会社も迷惑している。事情を説明しに行かなければならない。根強く。根回ししながら。認知症という認識さえもっていない人がいるかもしれない。でもきっと認知症という病気だということは理解できても、突然便が空から降ってきて、自分の生活圏に落っこちてきたら不快なことに変わりはない。頭のおかしい奴は、施設に早く閉じ込めろ、ときつい顔をする人だって少ないかもしれない。そういう人がいるのは当たり前でもある。ただ、Sさんは自分の家が大好きで、ここで暮らしたいという思いがある。本人、家族、地域住民がどう譲り合えるか、人権やヒューマニティとか言ってられないくらいの厳しい現実で、利害の一致しない人間同士を、どうやって橋渡しできるか、と問われても、新米の私は、そんな最強コンボあるのかよ、と疑問を抱えながら、先輩の後を続くだけである。
でも、他人事ではないと感じる。高齢化や地域の関わりが希薄となった現代に、自分はどの立場の人間になってもおかしくないなあと思う。15歳の時の私は、「うんこを投げるとか、人間かよ」と笑いを誘ったI先生に、ちょっとでも「認知症」や「精神疾患」についての基礎知識を教えてほしかったんだと思う。頭のおかしい人間とおかしくない人間にそんなに差がないことを、理解できないものを見下して安心したり、弱そうにみえるものと馬鹿にしちゃうのが人間の性だとしても、やっぱり馬鹿にはできないよね~って困ったような笑顔でまとめてくれたらあんなに悔しい気持ちにはならなかったんだと思う。前々から思っていたんだけど、教育に携わる人がこういった福祉分野の知識が殆どない現実はちょっとやばい気もする。8年前、23歳のI先生に会えるなら、「その人、認知症あるんじゃない?福祉機関に繋げたほうがいのでは?先生も、大変だったねえ。びっくりしたでしょ」とか言いたい。叶わぬ夢だけど。