僕は日本の古典文学の中の、歴史的な記述に関する研究に携わっています。最近、論文を書こうとするときに、近現代史にまつわる歴史修正的な動きが気になって、筆が鈍くなりがちです。今のところ、自分の研究分野と昨今の情勢との間には時代や扱っている資料に大きな差があります。そのため、現実問題として論文を書く際に、具体的な脅威を感じるわけではありません。しかしながら、戦前の文献などを見ていると、最初は誰もが皆「自分とはとりあえず関係ない」と感じていたにも関わらず、あっという間にものが言えなくなっていったのではないかと思うことがあるので、怖くなります。
職業柄、自分や自分たちに都合が良ければ、間違っていてもかまわない、間違っていた方がいいという立場は取れません(文字通り、そんな馬鹿な、と思います)。その一方で、ご飯が食べられなければ生きていけないのも事実です。現実問題として、先日の選挙の時には、職場から政治的な発言を厳につつしむよう通達が来ました。前はそこまで強く言われなかったんですけども。強く禁じられるような事態にならなければ、言おうとも思わなかったというのは実に皮肉だと思います。
僕はこれから先も(小説ではありませんが)自分なりの基準で誠実にものを書いて生きていければと思うのですが、昨今の書きにくさや不安に対してどのように向き合っていったら良いでしょうか。単に自分がナーバスになりすぎていて、考えすぎの杞憂というものでしょうか。書き手として最も尊敬する村上さんのお考えをうかがえればうれしく思います。
あまり面白い話で無くてすいません。あるいはサイトにそぐわないかもしれませんので、その折はどうぞご放念ください。突然失礼いたしました。
(たま、男性、33歳、研究者)
昨今の世の中の恒常的な右傾化には、僕も常々危機感を感じております。あなたのなさっているような日本古典文学の研究にまで、そういう圧力がじわじわと及んでいるんだ。学術研究というのは何事からも自由でいなくてはならないはずのものなのに。日本経済の失速がもたらす閉塞感と、近隣諸国の台頭に対する危機感が、おそらくこのような屈折した風潮をもたらしているのでしょうが、手遅れにならないうちになんとかしなくてはと思います。自主規制を求めるというのは最も巧妙で陰湿な抑圧です。日本はもっと洗練され、成熟した国家でなくてはならないはずなのに。
たしかにサイトの性格にはいくぶんそぐわないかもしれませんが、あなたのおっしゃっているのはとても重要なことだと思います。だからあえてお返事をさしあげました。
村上春樹拝