「中に溜める」ときと、「外に発散する」ときと
朝日新聞がやらかした信州大学学長の「スマホやめますか」に続いて、今度は純丘曜彰さんがスマホDISに参入していて興味深いわけです。
一部のネットでは純丘曜彰さんのことを馬鹿だの時代遅れだの散々書かれているようですが、冷静に内容を拝読すると純丘さんの仰りたいことも良く理解できるんですよね。ただ、やっぱりスマホやネットにどっぷりハマって、脊髄反射をネットに書いてしまうような行動パターンの人達からすると、自分自身がそういう依存に陥っていることに気づかないか、商売としてそういう方面に足を突っ込んでいるので公に否定できなくなっているか、そういう話なんじゃないかと思うわけです。
報道メディアによる炎上燃料投下が目立つ時代になりました
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20150406-00044589/
純丘曜彰氏 スマートフォンは「負け組の吹き溜まり」と語る
http://news.livedoor.com/article/detail/9972289/
で、スマホ依存については鈴木謙介さんが指摘されております。
「スマホ依存」に対する誤解
http://blog.szk.cc/2015/04/06/the-misunderstanding-of-smartphone-addiction/
もっとも、この「社会全体でケータイ依存を減らすことにはつながりません」というのは社会学独特のお話で、たぶん公衆衛生方面からデジタル依存の定義を作っていろんなテストを進めていくプロセスが始まっていくでしょうから、べき論は措くとしてももう少し細やかな議論が必要かなと感じます。
私としては、自分の中に何事か溜めていくプロセスと、誰かと繋がって発散するプロセスとの均衡が保てないとややこしいことになるんだ、という結論に落ち着きます。溜めたままでもタコツボに入るであろうし、SNSにどっぷり漬かっていても単なるネット廃人であろうし、入力と出力を高めあっていかなければデジタル時代にネットに繋がっている意味は乏しいだろうと感じるわけですね。
その意味で、信州大学学長の山沢清人さんの言説は物凄く深い味わいがあると思うし、それを「スマホやめますか」とか糞みたいな炎上芸に仕上げた朝日新聞は潰れろと感じるし、日々似たようなことをしている自分も反省するし、いいこといっぱいある話だったように思います。やっぱり釣りはネット文化とかいってるだけじゃ駄目だな、と改めて感じた次第でした。
そんじゃーね。