1950年6月、日本の自動車メーカー、トヨタは、深刻な不況で破産の危機に直面していた。実績不振にストライキまで重なり、6月5日には創業者の豊田喜一郎社長ら経営陣が全員退き、権限を委任された神谷正太郎・トヨタ自動車販売社長(当時。現在のトヨタ自動車営業部門)は、23日から急きょ米国出張に旅立った。会社生き残りのためには、株式をフォードを渡してでも新たな資金を「輸血」するほかなかったからだ。ところが2日後の6月25日、韓国で戦争が始まった。ニュースを聞いた神谷社長は「日本経済復活の天佑神助を期待する」と語ったが、期待は現実になった。7月に入ると、米軍からトラック1000台の大量注文が入ってきたのだ。
その後、6・25戦争(朝鮮戦争)に伴う日本の自動車メーカーの総受注量は、トヨタを筆頭に1万台を越えた。前年の1949年における日本の乗用車輸出はわずか13台だったが、50年の輸出は5502台と、一気に40倍以上に増えた。もちろん、日本の底力や起業家精神などが果たした役割も大きかったが、6・25戦争は、死につつあった日本の自動車産業がよみがえる決定的な契機になったのだ。
この点は、日本の企業関係者も認めている。トヨタをグローバルな自動車メーカーに押し上げた主人公、豊田英二氏(1967年から82年までトヨタの社長を務める)は、2000年に出版した回顧録『決断』で、6・25特需について「本当に、救済の神にほかならなかった」とつづった。
最近日本政府は、日本の支援のおかげで韓国の経済発展が可能だったというようなメッセージを世界に向けて発信しているが、日本が製造業大国になる出発点は6・25戦争に伴う特需だったという点は極力無視している。日本が50年から55年までの間に韓国特需で稼ぎ出した外貨収入は合計40億ドル(現在のレートで約4770億円、以下同じ)=経済企画庁の資料=に上り、植民地支配に対する賠償金として日本が韓国に提供した資金3億ドル(約357億円)の13倍にもなる。1950年代の日本の国内総生産(GDP)は年間200億ドル(約2兆3820億円)程度で、当時40億ドルというのは大変な金額だった。日本経済の専門家、イ・ジピョンLG経済研究院研究委員は「戦後ドル不足に苦しんでいた日本が、6・25戦争という特需のお陰で再建できたのは否定できない事実」と語った。