私は地下鉄サリン事件の被害者です。当事者は、あの日のことは自分が経験したことしかわからないので、村上さんの『アンダーグラウンド』を読んで、はじめて視界が広がったような、自分の立ち位置が見える俯瞰図を見たような気がしました。
事件に遭遇した直後、私は吐き気がひどくて1日食事ができなくなりましたが、ほかの症状はなかったため、コリンエステラーゼが30%減少したと言われても、被害者の中では軽いほうだと思っていました。その後、さまざまな症状が出始めましたが、事件から何か月も過ぎてから出た原因不明の不調(内科、耳鼻咽喉科、婦人科、歯科、眼科など)が、事件とつながりがあるとは、当初は思いもしませんでした。
事件から15年後、犯罪被害者給付金を受けるにあたり、事件当時かかった大学病院からカルテを取り寄せたとき、「有機リン中毒」と書かれていたことと、北里研究所病院であらためて受けた検査で「中枢神経機能障害」と診断されたことから、インターネットや本で調べるようになり、これまでの原因不明の症状が、じつはどれも有機リン中毒の典型だとわかりました。
病院でさまざまな検査をしても何もわからないまま同じ症状を繰り返していたころは、心身ともにつらい時期でしたが、有機リン中毒という古くて新しい中毒の問題だとわかってからは、気持ちのうえで楽になりました。ただし、医療の面では、PTSDばかりが強調され、有機リン中毒は無視される現状に不安を感じます。
サリンの発がん性は不明とされていますが、私は4年前にがんを患っています。それは特殊な例なのか、そうではないのかもわかりません。有機リン中毒で生殖障害が起きることは、動物実験では明らかになっているそうですが、サリンの被害者はどうだったのか、そんなことも気になります。20年を経た今なら、比較的容易に調べられると思いますが、被害者同士をつなぐ場はなく、関心をもつ研究者もいないようです。20年目のアンケートでたずねられたのはPTSDのことばかりでした。私は、自分が経験してきたような言葉になりにくい身体症状が気になります。
あれから20年目の自分の状況を、村上さんにご報告したいと思っていたときに、「村上さんのところ」が開設されると知り、相談させていただくことにしました。『アンダーグラウンド』に登場した人や他の被害者たちは、今どうなのか気になります。村上さんから呼びかけていただくことはできませんか。
(きの未来、女性、60歳、編集者)
メールをありがとうございます。そうですね、PTSDについてはよく語られますが、おっしゃるように、そのような純粋に肉体的な後遺症が取り上げられることは比較的少ないようです。いろいろとご苦労が多いことと思います。サリン事件について、被害者のみなさんの身体状況について、医学的に立体的に研究する機関のようなものがきっと必要なんでしょうね。それについての調査研究をしている民間団体もあるようですが、そういうことは国がきちんと窓口を作り、系統立ててやるべきだことだろうと僕は思います。医学的資料としても、将来的に大切な意味を持つことですし。被告人たちを裁判にかけ、刑事罰を与えてそれで一件落着、みたいになってしまうのがいちばんまずいですね。
僕は自分の書いたものを読んで泣くことってまずないんですが、『アンダーグラウンド』だけはいつ読んでも思わずどこかで涙が出てきます。たぶんそれはあの本が僕の書いた本というよりは、あくまでいろんな方のボイスの大きな集合体であるからだと思います。あの事件は僕にとっても、いろいろと大きな意味を持つ出来事でした。20年を経た今でも、思い返すたびに胸が痛くなります。
村上春樹拝