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日本人が外国語ベタな理由 養老 孟司 「唯脳論」


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唯脳論 (ちくま学芸文庫)

内容紹介
文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、そして心…あらゆるヒトの営みは脳に由来する。「情報」を縁とし、おびただしい「人工物」に囲まれた現代人は、いわば脳の中に住む。脳の法則性という観点からヒトの活動を捉え直し、現代社会を「脳化社会」と喝破。一連の脳ブームの端緒を拓いたスリリングな論考。




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世界は、脳の投影である。

「バカの壁」でも有名な養老 孟司氏98年の著作。
解剖学者としての視点から脳を思考の中心として定め論じた「唯脳論」
なかなか難しい本だけれど、興味深い面白い部分がかなり多かった。

とはいえ、読んでる自分がバカなもんでw
以下はバカ的な感想ですが、参考になれば(こんな本すら平易にしか感想を書けない)。

脳と言葉

脳と言葉に関しての章で個人的に面白かったのは漢字とカナの理解の違いか。

ウェルニッケ中枢の障害では、音声言語が理解できなくなる。視覚性の言語中枢にはやや問題がある。
とくに日本人の場合には、かなと漢字の問題があるからである。カナは読めるが漢字は読めない、漢字は読めるがカナは読めないと言う症例が、じつは知られている。このことは、皮質でのカナと漢字の処理部位が違う可能性を示唆する。角回の障害では、日本人はカナが読めなくなる。西洋人ではアルファベットすなわち視覚言語全体の障害が生じる。
(中略)
当然のことであるが、同じ視覚言語であっても、漢字はより視覚的な視覚言語であり、カナは音声的な視覚言語である。
(中略)
日本人の外国語下手は定評があるが、下手な部分が会話すなわち主として音声言語であることは、注目に値しないか

発生する際の音声と文字が一致するカナとアルファベット。
それに対して一文字で意味を持ち、しかも音と訓、複数の読み方を持つ漢字では当然ながら使われる脳の回路が違う。

アルファベットは順番の言葉で、日本語は順番がゆるい、と言う話があるけれど、アレにしろ音声言語であるからこそ繋がりあうことで意味を持ち、だからアルファベットは語の順番が大事で、漢字とカナを使う日本語は前後がバラバラでもより視覚的な言語だからこそ意味が崩れにくい。
これほど体系が違う言葉だからこそ日本人は英語を学習しづらく、反対に言えばアルファベットで育った外国人が日本語、しかも漢字の概念を覚えるのは捉え方自体から変える必要がある、と言うのがよくわかる。

だとすれば日本人が英語を学習するにはまず捉え方から変える必要がある。
言葉とは~と言う日本語的な感覚があるからこそ、英語学習を阻害している部分は否めない。


だからこそ厚切りジェイソンはすごいんだが。

厚切りジェイソン ネタ3連発 - YouTube
外国人が日本語でコメディをやる難しさについては、またいずれ。
そもそもコメディとしての構造が違うんですよね、日本の演芸(話芸)は独自発(ry

脳と音楽

他にも歌と音楽と言語についての論も面白い。
たとえば言語は、音が上ずっても理解できる。
斜め読みもできる。
もし表記が前後しても理解出来るし意味はさほど変わらない。
さらに言うなら

こちにんは みさなん おんげき ですか?  わしたは げんき です。 この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか にんんげは たごんを にしんき する ときに その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。 どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?

http://lefthandz.tumblr.com/post/101406997

前後が違っていても脳は補てんし読めてしまう。
視覚は、曖昧さを許容してる。

文字はとても緩く出来ている。
視覚はユルいから点が三つあるだけで顔に見えたりもする。
f:id:paradisecircus69:20141119151948j:plain
AAも理屈は同じ。
視覚と文字の結び付けが重要ならAAは言語と記号にしか見えないだろう。


しかし音楽は、一音でも違えば違和感が生じ、二音変われば違うものになってしまう。
長さが長くても短くてもいけない。
前後が違えばそれは別の楽曲。


ここからは私見だが、
音楽は、楽器を演奏し鳴らす順番と音の高さ、長さで意味が生じる。
歌には、発声音と言葉との両方があり、しかも背景に伴奏がある。
複数のストリームが同時に存在し、それを聴いた脳はそれをひと塊の「楽曲」として処理するんだろう。
そのときに付与された歌詞の意味性を抽出したり、識閾下で音を処理する。
歌がマルチストリームだからこそ処理が煩雑になり、音ではなく付与された言葉の意味性を取ることで(あの歌詞共感できる―、みたいな)名曲と呼んでみたり、あるいは英語の歌詞だと言葉が理解できないから聞かない(音楽を音として聞く認識が欠落している、意味性の理解がなくても音としてのみの音楽の嗜好)と言う主張があったりする。
そういうことなのかしら、と愚考してみたり。
よくわかりませんが。

脳と世界

特に脳が(ひとが視覚情報を得たことにより視覚偏重で他感覚と結び付け強引に)外部世界を理解したと言う。

構造では時間が量子化され、機能では流れる。構造と機能という、この二つの観念がそもそもヒトの頭の中に生じるのは、いわば脳の視覚的要素と聴覚要素の分離ではないのか。構造と機能とは、どう考えても同じ要素の異なる面だと思われるからである。同じ要素を、ヒトの脳の都合で二つに割っている。
外界の事物は、ただなにげなくそこに存在している。しかしわれわれの脳はそれを、聴覚や運動系に依存して、時を含めてとり込む。あるいは視覚系に依存して、時を外してとり込む。
この二つが脳の中で「連合」するのは、そう簡単ではなかろう。

量子論で言う不確定性原理の二項対立を生んでしまうのは、脳の認識がそれだからだ、と言う辺りはとても興味深い。
歪めて敷衍して行けば人間原理宇宙論にでもなりかねないけれども、まず思考し観察する脳の構造の前提から疑い思考すると言うのはとても難しい。
平易に言えば自分が立っている足元を掘り返すようなもの。
何かの計測を行うのに計測器の正しさを疑い始め、その正しさを保証するために他の計測器を使うなら、その計測器の正しさも補償しなければならないウロボロスの蛇。
言葉であれ事物であれ、それは脳に備わっていたものの投射。



いかんせん、養老氏は教養もある方なので、アホな自分としては読んでいて教養が必要な部分はさっぱりちんぷんかんぷんアジャパーで「○○の言うところの○○論では~」などと書いてあったりしても、教養がないので”○○の○○論”を知らないもんだからその辺は「そーいうものがあるんだろうなー、へー」くらいでざっくり読んでみた。
と言うかそこにこだわって完全に理解しようとすると多分読み終われない難解さがある。

感覚器を使い濾過された情報しか摂取できない(スペックは備わった脳次第)と言う人間の脳を思考の中心に置き、言語、世界、運動、時間などさまざまな論考へと広げている。
とまれ一読していただくと、さまざまに新しい知見や知的好奇心を満足させてくれると思う。

付記

図解 感覚器の進化 原始動物からヒトへ 水中から陸上へ 器官の進化シリーズ (ブルーバックス)
人間の感覚器に関しては講談社ブルーバックスから出ている名著「図解 感覚器の進化」をお勧め。
こちらは、感覚器というセンサーの進化と発展について詳しい。


脳に関しての興味が沸いた方なら名著「脳のなかの幽霊」が面白い。
神経科学者である著者が脳とさまざまな臨床例について絡めて描いている。
脳のなかの幽霊 (角川文庫)


あと本書内に失「音楽」症の逸話が登場するのだけれど、これに興味のある方はオリヴァー・サックス「音楽嗜好症: 脳神経科医と音楽に憑かれた人々」を。
こちらは脳神経科医である著者が音楽にまつわる臨床経験を書いた本になってる。
オリヴァー・サックス氏の著作はこう言うのが多いんだけれど、全然電子書籍になってないから手を伸ばしづらくってですね。
音楽嗜好症: 脳神経科医と音楽に憑かれた人々 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)