しっきーのブログ

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和ゲーと洋ゲーの違い



 今回は和ゲーと洋ゲーの違いについて。和ゲーは自由度が低いからダメとか、洋ゲーはグラフィックだけでゲームシステムが糞とか、某掲示板などで盛んに意見が交わされているけど、和ゲー洋ゲー論争についての僕なりの回答。


 和ゲー、洋ゲー、というのはもちろん日本国内の呼び方で、洋ゲーの「洋」にもいろいろあるんだけど、ここでは主に大規模な買収や合併を繰り返しているアメリカの大手ゲームメーカーの作品のことを言う。


和ゲーと洋ゲーの違いは?

 僕の分類では、洋ゲーは「シミュレーション」で、和ゲーは「パッケージ」だ。


 ここで言う「シミュレーション」は、シミュレーションゲームというジャンルのことではなく、ゲームのもとになっている発想がシミュレーション的だという意味。

 海外では、ゲームはコンピューターに近しいものとして捉えられていて、ゲームの発想もコンピューターの機能の一つであるシミュレーション的なものになっている。洋ゲーメーカーはもともとソフトウェアを開発していた会社が多い。XboxだってPCメーカーのMicrosoftがつくったハードだよね。


 一方で、日本のゲームは漫画や玩具の延長として作られ、発想がパッケージ的になっている。コンピューターの設計思想とは違って、できることは限定されている。しかしその分、少数の作家が最初から最後まで細かくゲームを設計することができる。

 だからこそ、現実にあるものを「模倣」することに力を注ぎ込む洋ゲーと違い、作品は全体性を持った「パッケージ」的なものになる。「職人的」と言ってもいいかもしれない。オブジェクトの配置や細かい難易度調整が重要な意味を持つ。


洋ゲーはシミュレーション

 洋ゲーの人気タイトルは、「バトルフィールド」、「Call of Duty」などのFPS(ファースト・パーソン・シューティング)。「GTA(グランド・セフト・オート)」などの犯罪アクション。「FIFAスポーツシリーズ」「マッデンNFL」などのスポーツゲーム。「The Elder Scrolls」などのRPG。「シムシティ」、「Civilization」などのシミュレーション。などなど、当然ながら膨大な数と種類のゲームがある。

 あえてこれら「洋ゲー」の共通項をとるなら、それが「シミュレーション」ということになる。現実にあるものをゲームの中で再現し、より精密、リアルなものを目指す。タイトルを重ねた洋ゲー人気作の系譜をたどると、より前提条件を多く(精密に)、よりリアルに(現実に近く)を志向している。



 例えば、GTAなら犯罪のシミュレーション、BFなら戦場のシミュレーション、スポーツゲームならスポーツのシミュレーションというふうに、現実にあるものをゲームの中で再現して遊ぶ。

 現実で犯罪を犯したり人を撃ち殺したりすることはできないが、ゲーム内だと自由にヒャッハーできる。また、洋ゲーはハリウッド映画に近いところがあり、映画やSFの世界観を「体験できる映画」として再現したゲームも多い。スポーツを題材にしたゲームなどは、現実にいる選手のステータスを正確に表現しようとする。

 洋ゲーに似たようなゲームが多いのは、現実をシミュレート(再現)することを目的にしているから。やることがはっきりしているので、分業や大規模開発がしやすいし、ゲーム内の物理エンジンなども汎用性が高い。最近の洋ゲーは現実の物理法則をゲームの中で表現しようとするくらいのレベルまできている。


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 洋ゲーのインターフェイスはPCに近く、操作方法やチュートリアルは和ゲーに比べると不親切なことが多いが、基本的に大人向けにつくられているので操作が難しくても大丈夫なのだろう。

 また、操作は難しくても、現実にあるもののシミュレートという点ではわかりやすい。ちまちまレベル上げや武器の強化をやるゲームよりも、銃撃戦とかカーレースとかスポーツのほうが国や文化に関係なく受けいれられやすいので、大多数の好みの共通項をとったグローバルスタンダードに近い。


 洋ゲーは、自由度が高いが、ゲームバランスが機能していなくあまり統合性がないという意見は多い。対人には重きを置いているのだけど、ゲーム内でのバランス調整という意識があまりなく、何かの目的があって、そのためにレベルを上げていく、上達していく、という部分が和ゲーに比べれば薄い。

 それは、ある程度自由度の高さとトレードオフになっているのだろう。PCの発想に近く、MODなども導入しやすいし、ユーザーが自分で遊び方や目標を見つけるという仕組みになっているゲームもある。


和ゲーはパッケージ

 和ゲーの発想は、コンピューターというよりも漫画に近い。日本の漫画の優れた点は、個人で全体性を持った作品を創作できることだ。日本のコンテンツ産業は作家主義と言われるが、漫画のように絵もストーリーもテキストも一人の作家が表現できるということはなかなかない。アメコミなんかは分業体制で作っているし、ハリウッド作品も、当然ながら一人のクリエイターが思っていることを自由に表現できるわけではない。

 和ゲーは漫画の発想を継いで、始まりから終わりまでプレイヤーの行動を一つ一つ想定してゲームをつくる「パッケージ」的なものが多い。一人のクリエイターが、「全体」を考えて作品を作る。最終的な完成形から逆算してゲームを想定するので、「一本道」だったり、「自由度が低い」ゲームが多い。

 しかし、オープンワールドのように作りっぱなしな感じはなく、一つ一つのオブジェクトやイベントが意味を持つ。


 洋ゲーが大人向けの市場を狙っていたのと比べて、和ゲーは子供向けの市場をメインにした商品だった。そのため、子供でも遊べるけどクリアする頃には上達している、という綿密なゲームバランスの感覚を培ってきた。簡単なことから始まり、ゲーム内でプレイヤーが上達し、やがて難しいことをこなせるようになる、というゲームの指向は、和ゲーの持つ最も優れた要素だと僕は思う。


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 僕が好きなゼルダの伝説というゲームは、和ゲーの中でも特にパッケージ的な作品だと言える。プレイヤーの行動を想定した綿密な調整の感覚がなければこのようなゲームは作れないだろう。(以前書いたゼルダの伝説記事一覧


 和ゲーは大作になるほど、細かいすり合わせや微調整が大変になる。日本のコンシューマーゲームメーカーが、人材の流動性の低い「会社」という形でゲームを作っているのも、それなりに必然性があるのかもしれない。


まとめ

洋ゲー
  • シミュレーション
  • 発想がコンピューターに近い
  • 大人向け
  • 分業して大規模な開発がしやすい
  • 操作は難しいが、現実にあるものの再現という意味ではわかりやすい
  • 自由度は高いが、ゲームとしての統合性がとれていないこともある


和ゲー
  • パッケージ、職人的
  • 発想が漫画に近い
  • 子供向け
  • 綿密な調整が必要になる
  • 操作は簡単だが、抽象されているという意味ではわかりにくい
  • 一本道だが、段々上達していけるようなゲームデザイン


 ここで述べたのは、あくまで大作コンシューマーゲームのおおまかな傾向にすぎない。当然ながら、どのゲームもシミュレーション的な側面とパッケージ的な側面の両方を持っている。ただ、和ゲーと洋ゲーそれぞれに偏ったものが見られるということ。


 この記事で和ゲーと洋ゲーのどちらが優れているかということを主張したいのではない。それはコンセプトの問題にすぎないので、優劣で考えるべきではない。ただ、近年和ゲーが低迷しているというのも事実で、それなりに理由はある。


 ハードの性能が低かった時代は、ゲームで表現できることが限られていたから、ゲームでも抽象的なものを扱う和ゲーの天下だった。海外市場を和ゲーが席巻し、ゲーム大国と言えば日本というくらい、日本のゲームは優れたものを生み出し続けた。しかし、ハードのスペックが向上して制作コストが高くなると、個人の作家性が強かった和ゲーはつくりにくくなる。一方で、洋ゲーは現実にあるものを十分にシミュレートできるようになり、大規模開発は役割分担をするプロジェクト方式にも噛み合っているので、勢力を伸ばしつつある。

 また、抽象的なレベル上げや武器強化よりも銃撃戦やカーレースのほうが文化に関係なくわかりやすいという部分でも、海外の市場は洋ゲーのほうがアドバンテージがある。任天堂などはまだまだ奮闘しているが、これは洋ゲーが基本的に大人向けの作品という事情もある。子供向けの洋ゲーってあまりちゃんとしたものがないから、そういう点では任天堂が有利。任天堂が一環して低年齢層を意識し続けているのは合理性がある。



 とりあえず、今日はここまで。和ゲー洋ゲーについては次回も書いていきます。




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