映画のテーマは
「ベイマックスの無償の愛」→愛は大事だ!私が君を守るから!
「自分の才能を、社会においてそのように使うか」→才能は人を助けるために使うんだ!
の2種類を織り交ぜて作られている。
1つ目のテーマ、指標を失っている思春期の少年が、無償の愛によって救われる。
このテーマ自体は特に目新しいものではない。(無償の愛を与えるのが、美少女かロボットかの違いだけだ)
希望を与えられ、愛を知り、そして誰かに希望を与えることができるようになる…。
ベイマックスの日本でのヒットはこの普遍的なテーマが受け入れられたから、というのもあると思う。
2つめのテーマについて。こちらの方が扱いが難しい。
主人公は自分があるべきモデルとなる近親者を失う→「人を助ける」という信念こそ兄の残したものだと悟り、立ち直る→その信念にそって行動した結果、ヒーローとなる
という順序になっていて、ラストの
『ヒロはヒーローになりたくてなったのではない』
というのはものすごく大切なことだ。
「Mrインクレディブル」では「ヒーローであるべき自分」という理想像に押しつぶされるヒーローが描かれた。
「世界を救うだけがヒーローではない」「家族で力を合わせたり、今までできなかったことができるようになったり、そういう小さいことの積み重ねでヒーローになれる」
メッセージが読み取れる。
「アナ雪」では女性を「男性に愛されるお姫様でなければならない」抑圧から解き放ったディズニーだが、男性が社会から受ける抑圧とはすなわち、
「強い自分でいなければならない=ヒーローでいなければならない」という抑圧である。
ベイマックスに込められたメッセージとは
強いヒーローを目指すのではなく、
愚直に自分の才能を他人を助けるために使っていけば、結果的にヒーローになれるのだ、というものだ。
社会で蔓延するマッチョ信仰、ヒーローという虚像とどう向き合うべきか、指標を与える意図があった。
希望を与えられて主人公が立ち直るまではよいが、そこからさてどうするかというのがこの映画の本番であり、チャレンジングな部分である。
そこが削ぎ落とされるような演出がされたことは残念に思う。
タイトルのベイマックス(BIG HERO 6)のラスト改変について。
日本版の演出は、先ほどの1つ目のテーマ「無償の愛」にスポットを当てる演出になっている。
「僕たちは思わぬ形でスーパーヒーローになった。」
「でも、兄さんの願いどおり、人々を助け続ける。」
「ベイマックスと一緒に!」
…これマジで盛り上がらない。「愛と共に!」つってるようなもん。
愛があれば大丈夫的な精神論を感じてすげーやだ。
「僕たちは思わぬ形でスーパーヒーローになった。」
「でも、兄さんの願いどおり、人々を助け続ける。」
「俺たちが誰かって?」
「ヒーローさ!」
こっちのが断然盛り上がるじゃん。
テダァーシーに甘えっぱなしだった子供が、愛を受け取るばかりだったヒロが、
今やヒーローになったんだって。
アナ雪でも言ってたけどさ、「愛」とかありのままで〜自己肯定とか
そういうのは大事だよ。めちゃ大事。これを通過しなきゃ次に行けない。
でも、それだけじゃ社会でやっていけないわけ。
自分の才能や内面と、社会との折り合いをつけなきゃいけない。
そういうあれだと思う。