お正月妖怪トカ
kenzee「元旦といえば、毎年姉一家、つまり子供達もミャーっと我が家にやってくるのだった。ボクも大人なのでお年玉をあげたりするのだった。まあ、お年玉っていうか、妖怪ウォッチとか進撃の巨人とかのオマケのついてるお菓子類を大量にみたいなことなんだけど。で、カードだかステッカーだか入ってるのでひとしきり兄弟でミャーっとかなって、ごはんとなる。毎年のお正月の風景だ」
司会者「今の子供はみんな妖怪ウォッチ好きだからねえ」
kenzee「ところでみなさん、妖怪ウォッチのアニメってちゃんと観たことあります? 元旦に五話連続スペシャルをやっていたのでみんなで観てみました。ちなみにお姉ちゃんは「あまりよく知らない人」弟は「大好きっ子」」
司会者「アレですか。要するに妖怪とかオバケがいっぱいでてくる、水木しげるの現代版みたいなことですか」
kenzee「オイラもそういうことかと思ってナメていた。ねずみ男的な悪いヤツをみんなで成敗、みたいな。しかし違った。そのような常識的なドラマツルギーがまったく通用しない、非常に抽象的な世界だったのだ。イヤ、一言で言うとスゴイ雑なのだ。いきなり「ロボニャン」とかでてくるし。妖怪じゃないのかよ! 基本、ジバニャンがひたすらボケ倒す1分から2分ぐらいのショートコントがエンエン続くだけ、みたいな世界であんまり細かい基本設定とかストーリーとかないんですよ。なんかねえ、「今日はニャーKB48の握手会だニャン!」みたいなことで、」
司会者「雑臭がプンプンするなあ」
kenzee「で、実際に会場に行ったら悪い妖怪がいて、戦うことになる、とかそういうドラマはまったくなくてガチャガチャコントみたいなことやってるうちに「おしまい!」みたいな。「ゲーラゲラポー」って。イヤイヤ待てよ!と」
司会者「お話ないの?」
kenzee「ないのよ! モテモ天とモテマクールではモテマクールに取り憑かれたほうがよりモテまくるのだ!ババーン!「ゲーラゲラポー」」
司会者「待て!と」
kenzee「全体的に雑な、投げたような作りが逆に魅力なのかな? ウィスパーっていう、主人公の男の子を助ける妖怪執事がいるんですけど、でてきただけで可笑しい、というテキトーなヤツなんですよ。くりいむの有田とかに近い感じかな。高田純次とか。ウィスパーがでてくると子どものテンション上がるのわかる。で、なにも主張とかメッセージ的なものがないのね。友情は大事、とか正義は勝つ!とか。ただひたすらジバニャンやウィスパーが虚無的なコントを繰り広げるだけなんですよ。で、子どものお母さんの(オイラの姉)も意味がワカラン!と。しかし、お姉ちゃん(兄弟の上のほう)はハ、わかった!と」
司会者「ややこしいな」
kenzee「コレ、オマエ(弟のこと)みたいなゆとり向けのマンガだろ! 今の子供って5分以上集中力持たないし。たぶんストーリー的なことやってもついていかれへんからショートコントみたいなことばっかりなんや! 今の子ってレジの行列で待ってる間に菓子とか食いはじめるとかそういう子向けにできてんねん!」
弟「・・・」
司会者「弟、集中力ないの?」
kenzee「ごはんの合間にきのこの山とかラムネとか食べてるよ。で、お肉が焼けたら「ア、お肉だ」」
司会者「子供に大人気なんだよな」
kenzee「文脈がないんだ。ちょうどふなっしーがテレビに登場するとき、前後の文脈関係なしにふなっしー的な登場をするように。もしかすると妖怪ウォッチとは「反ジャパニメーション」なのかもしれない。ガンダム、宮崎アニメ、エヴァと自然主義文学の方法論の蓄積を重ねてきた日本のアニメに反旗を翻しているのかもしれない。「もはや主張やメッセージはいらない。グーグルの登場以降、あらゆる正論は正当性を担保できなくなった。ならば、現代の子供達に与えられる確かなものとはつかの間のアナーキズムだけだ」といったような態度なのかもしれない。ただ、虚無的なコントを繰り広げてくれ、それこそが真実なのだ、と」
司会者「ヌーヴェルヴァーグの監督みたいだなあ」
kenzee「ちなみに妖怪の中には映画監督妖怪ミスタームービーンとかいるよ」
司会者「テキトーだなあ」
ー本ー
kenzee「もうさすがにアマゾンも動かんナ」
司会者「一応紙のメディアにもダ・ヴィンチにさやわかさんが、ミュージックマガジンに栗原裕一郎さんが書評を寄せてくださって、良かったネ!」
kenzee「ネットにもじっくりと読み込んでくださった感想ブログなどがいくつか上がっている。嬉しいですネ!」
司会者「去年はこの本にほとんどのリソースを費やしたようなもんですが、今振り返ってどうですかね」
kenzee「本というフォーマットの不思議なところは、はじめっからああいう論だという確信のもとに書き上げたように見える、ということだね。実際にはジタバタジタバタの連続だったんだけど。そうやってるうちに「我々、日本人とは!」みたいなデカい話になっていって「コレ、どうやって終わるの?」と頭を抱えることとなった。あの流れでいったら成り行き上、やっぱり震災以降の日本社会、みたいなトコが落としどころかなあ、とか。で、「災害ユートピア」みたいな本とか一応ナナメ読みしてそれらしいエンディングを書こうとしたんだけど全然ダメなんだよ。あきらかにとってつけたような文章で。そらそうで、ボク、震災とか原発のことなんて真剣に考えたことないんだもん。コリャまいった。根本からエンンディング考え直そうと思って、「最後に私の母親の話をしよう」って試しに書いたら、そっから一気にあのニュータウン論みたいなあとがきになった。ホント、あそこは20分ぐらいで書いた。それまでサンザン悩んでたのはなんだったんだというぐらいピタっとピースが嵌ったのだ。文章って不思議だね。そういうことがあるんだね。で、そんなつもりじゃなかったのにその前のあさま山荘のレイクニュータウンの話があとがきの伏線みたいに思えてくるのだった。つまり、連合赤軍のメンバーたちの持っていた地図には載っていなかったレイクニュータウン、坂口が意味不明の未来都市だと感じた風景が1974年生まれのボクにとっての原風景なのだ、という。彼らの空想的な近代はあっけなく10日間の銃撃戦で敗れ去ったが、実際の近代社会は彼らの理解の外にあった風景や環境が規定していった、という風に読める。そんなニュータウン的な近代の感覚をナゼか敗北者の側であるはずの永田洋子はキャッチできていた。東京大空襲の前月に生まれ、震災の前月に獄中死した永田こそが戦後の日本人の感覚の変化を捉え続けた人物だったのだ、という話だったのかなと思う。イヤ、そういうことが言いたかったんだと思うのですよ、ボク」
司会者「今頃気づいても」
kenzee「書き終わった時は、「コレが正解だ」ということは勘で分かったのだが、ナゼ正解なのかはある程度時間が経たないとわからないんだね。ただね、こんな綱渡りみたいな本を書くのはもうゴメンだね。もし、今度そういう話があったときはもうちょっとプリプロというか固めて書きたいもんだね。こんな手探りみたいな書き方、心臓に悪いワ」
司会者「一応音楽ライター、ってトコに引きつけて書いたわけじゃない。アイドル論のとことか」
kenzee「よく多少ハチャメチャな論でも「対象に愛があるから許す」みたいな言い方ってあるじゃない?「もうこの人、好きすぎて狂っちゃってるよ」みたいな。それはね、評論というルールの中ではダメなんですよ。多くの批評は自分の好きなモノの話をしようとしてコケる。批評が好き、と対象が好き、は逆のベクトルの話なんでね。なのでアイドルに興味ない人がアイドルについて考える、というのは意義があることなのです。と、言った舌の根も乾かないうちに後半の連合赤軍の話は典型的な「好きすぎて、狂っちゃってる」人の話にどんどんねじれていく。だからヘンな本なんですよ」
司会者「でも、これで「ヘンな論をデッチあげる人」という認知は得たのだからもっと自由な感じで書いてみるのは面白いんじゃない?もう音楽とかすら離れて」
kenzee「イマドキの音楽にはもうついていけんしなあ。ボク、音楽について最近思うのはね、ナゼ音楽は、特に歌ものの音楽は聴き手の心情とかアイデンティティと強く結びついてしまうのか、という問題だね。たとえばね、誰かがツイッターとかでSEKAI NO OWARIをボロカスにディスったとして、まあ炎上すると思うんですよ。でも村上春樹をボロカス言ったって、イチイチ炎上しないでしょ? 音楽にはそういう側面がある。歌手小沢健二を試しにクソミソに言うときっと炎上する。でも、小沢さんの著書「うさぎ!」をメチャクチャに批判しても炎上にはならないだろう。少なくとも音楽のようには。この心情の問題が音楽ジャーナリズムの難しさだと思う。音楽だけなんですよ。ここまで聞き手に強い求心力を持つのは。小説家とか映画監督とかアニメ作家で音楽のようなことは起こらないだろう。このようなファンの心情と強く結託してしまいやすいタイプのアーティストがいるわけです。たとえば尾崎豊とか小沢さんとか。それが結果、アーティスト自身を抑圧したり蝕んでしまうというパラドックスも起こるわけです」
司会者「やっぱりステージに立ってパフォーマンスするというフィジカルの側面が大きいんじゃないですかね」
kenzee「でもお笑い芸人だって同じだけどそこまで心情的に重ねるってことないじゃない。やっぱり歌ものの音楽だけが特殊なのよ。ひとつ考えられるのは歌うとか踊るっていう行為は他の表現より宗教的な儀式に近いからかな、とは思うな。じゃあ歌がうすーい宗教みたいなもんだとしたらオートチューンとかボカロの登場はなにを意味するのか、とか」
司会者「正月からややこしいこと考えるなあ」
kenzee「あるいはロマンポルシェのような極めて宗教性の低い歌が存在するのはドウシテ?とか。あとダンスミュージックは間違いなく宗教的儀式に近いものなのにダンスミュージックの作家に心情を重ねるっていうことはそれほどないじゃない? ケンイシイがオレの青春、みたいな言い方はあんまりないじゃない。コレ、どういうことかなとか」
司会者「ほかなんかありますか」
kenzee「あと、本書くときに一通りの歌謡曲を聴こうと思って「青春歌年鑑」ていうアンソロジーを一気にツタヤで借りてきたりしたのだが、もうちょっとちゃんと聴きたいね。美空ひばりですら代表曲しか知らないからね。そんな感じかなあ。そんなわけで今年もひとつヨロシク」
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コメント
レベルファイブの日野さんは妖怪ウォッチアニメのシナリオも手がけてらっしゃいますが、過去に機動戦士ガンダムAGEというえらい評判悪いシリーズの脚本もされてたんです。
もはや中年オタク向けとなったガンダムを破壊した後で妖怪ウォッチ大ヒットにより子供のハートをキャッチという皮肉な構図。
投稿: 紅 | 2015年1月 3日 (土) 06時08分
ア、紅さんあけましてオメデトウ! そして何でも知ってるなア。妖怪ウォッチはスゴい不条理なマンガだけど赤塚不二夫の世界に近いような気もするんだよね。
投稿: kenzee | 2015年1月 3日 (土) 14時03分