なぜ戦争はセクシーで、平和はぼんやりしているのか――戦争とプロパガンダの間に

これから必要なのは、「平和」ではなく「戦争」をアップデートすること!? 実務家として紛争解決や武装解除をしてきた伊勢崎賢治と、コミュニティ分野での様々な企画を手掛けてきた伊藤剛。共に東京外国語大学大学院「平和構築・紛争予防コース」にて、平和コミュニケーションに携わる二人が、戦争とプロパガンダの関係について語り合う。(構成/山本菜々子)

 

 

画像検索してみたら

 

伊藤 ぼくは、「戦争」と「平和」という概念について、ここ数年コミュニケーションの観点からもう一度考え直しています。よく伊勢崎さんは「平和運動家はどうしてセクシーじゃないのか」とおっしゃっていますよね。一方で、戦争はセクシーだと。それがどうしてなのかという根本の部分に繋がることです。

 

伊勢崎 確かに、「平和」より「戦争」の方がセクシーですね。

 

伊藤 伊勢崎さんのお話を伺って衝撃的だったのは、実際の紛争地では、戦争がファッションとしてかっこいいと思って軍隊に入る人がいるという実態でした。ダボダボのカーゴパンツや、銃を撃つ姿がかっこいいと若者たちが感じている。そういう意味で考えれば、確かに戦争はセクシーなのかもしれませんね。

 

「戦争」と「平和」は対義語として使われていますが、コミュニケーション論的には決して対称ではありません。どういうことかと言うと、「戦争」は目に見えるものですが、「平和」や「愛」「正義」といったものは、すべて目に見えないものです。カーゴパンツや銃のように実体として存在しているわけではありません。つまり、誰かが頭の中で生みだした「概念」ということです。この「差」が、プロパガンダを考える上ではとても重要になります。

 

なぜなら、「平和」という言葉を使ってコミュニケーションしようと思ったら、目に見えない以上、投げかけられた人たちの頭の中に浮かぶイメージは異なるということです。だから、まずはそれぞれの頭の中にある「平和」をすり合わせないといけない。コミュニケーション的には一手間かかるんです。

 

一方、「戦争」は違います。戦争のイメージはかなりの部分で共通しています。試しにGoogleなどの画像検索で「war」という単語を入れて見てください。戦車があったり、人が死んでいたり、いわゆるぼくたちの抱く「戦争」のイメージと重なると思います。でも、「Peace」で画像検索してみると、曖昧な画像ばかりが出てきます。よく分からない平和のマークだったり、青空だったり、かなり抽象的なものばかりですよね。

 

コミュニケーションの素材として、「戦争」と「平和」にはこれだけの差があります。存在する戦争はコミュニケーションしやすいんです。恐怖のイメージが一瞬にして共有できますから。

 

だからなのか、平和運動の人たちが使う「平和」は「反戦」とイコールの意味で使っていることが多い気がします。訴求しやすい戦争を前提として、それに反対を唱える投げかけ方です。また、原発問題に関しても同じで、「反原発」を掲げることで「原発」の前提を利用する方法です。でも、「反○○」とした時点で、コミュニケーションとして考えれば相対的に弱くなってしまう。

 

もしもコミュニケーション戦略として勝とうと思ったら、「戦争」という言葉を使わずに「平和」をどう表現するのかを発明しないといけないわけですが……。

 

伊勢崎 うーん。「戦争」という言葉を使わずに「平和」を語るのは無理だと思いますね。「平和」というのは、やはり、アンチテーゼでしかないと思うんですよ。

 

例えば、核を生みだした時に、「戦争」と「平和」はもはや対義語ではなく、限りなく同義語になってしまったと言えるかもしれません。

 

核兵器として、まず五大国が保有した。続いて、中国と領土問題を抱え局地戦になったインドが核実験を強行。それに慌てた、インドと分離独立以来戦争状態のパキスタンが続く。

 

NPT体制的にいうと、インドとパキスタンの保有は“違法”ですけど、インドはずっとこの体制は“不平等”と撥ね付けています。ウラニウムを濃縮するだけで途上国でも核武装できるから厄介なのですね。パキスタンの場合は、国家としてというより、あのカーン博士が築いた個人的な裏のシンジケートで濃縮技術を世界中から集めたのですから、ホント、タチが悪い。

 

人類が持つ核不拡散の唯一のレジームは、残念ながら、こんな脆弱なものなんですね。だから、核の「平和」利用ということで、原発技術を援助することで、こういう国の内政に入り込み、核兵器への転用禁止を「援助の条件」として約束させるしかない。その約束も、確実に守られる保証はない。

 

そして、核武装をすることで「戦争」が抑止されているという側面もある。

 

伊藤 反戦のための核利用ということですね。より大きな戦争を止めるために核武装をしているという。

 

伊勢崎 歴史的にはキューバ危機がありましたが、スーパーパワー同士は直接的な戦争をしていないわけです。大きな戦争を国境で繰り返してきた印パ関係も、両国の核武装以来、「通常戦」が抑止されているという事実もある。一度、ホントに核のボタンが押されそうになりましたが……。特に、インドに比べ国力、通常戦力で圧倒的に劣るパキスタンは、数ある印パ戦争でボロ負けしていますので、核があるからこそインドに征服されない「平和」がある、と国民全体が信じ切っている。パキスタンをイスラム教国として初めて核武装させたカーン博士は、ダントツで国民の英雄です。

 

だから、「通常戦」を抑止することが「平和」と考えたら、核武装は「平和」のための手段ということになっちゃう。「通常戦」でも、人は大量に死ぬわけですから。

 

そう突き詰めて行くと、「非核」というのは、「非戦」が完全に達成される状況になければ不可能、ということになります。つまり、核を、皆が、いっせいのせっ、で放棄できる「人間性善説」が支配する状況ですね。誰かが「後出しジャンケン」のようなズルをして世界の王様になるなんて考えなくて済むという。こんな状況、一体いつになったら来るのか。

 

これからの近未来を支配する対テロ戦からどう抜け出すかも分らないのに。というか、パキスタンでは、元々「個人の努力」で保有した核が、テロリストの手に渡ってしまう近未来を想定しなければならないと、隣のアフガニスタンで戦うアメリカは本気で心配しているのです。つまり、「いっせいのせっ」にテロ組織も入れなければならない…。

 

伊藤 そうなると、前提を「戦争」にするのはある意味で仕方ないということですね。しかし、コミュニケーションとしての「平和」には、もう活路はないということなんですかね。

 

伊勢崎 諦めたくはないですね。核は無ければ、それに越したことはないのですから。広島、長崎、そして福島と、人類史上で最も原子力の悲劇を味わった日本だけがなれる、世界のモラルオーソリティの国になるという選択肢はあるでしょう。

 

伊藤 夢見がちな国になるしかないと。

 

伊勢崎 いえ。今までの護憲派のようでは、世界のモラルオーソリティなんて無理です。官民共にオール・ジャパンで、ホントに命かけて世界に出かけて行って「非戦」を実践しないと。と、こう言ったら真っ先に手を叩くのは、自分ではもう出かける体力もない無責任な年寄りばかりで、若者は今、完全に内向きですからね。ホント、どうしよう。

 

 

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恐怖を可視化する

 

伊藤 「戦争がビジネスである以上、平和もビジネスにしないと対抗できない」とは伊勢崎さんがよくおっしゃっていることですが、概念としてはとても賛同できる。つまり、「産業対産業」にしないと戦えないということですよね。

 

伊勢崎 そう。どうやって平和を産業化していくか考えていかないといけません。でも、まだ、掛け声だけで終わっています。僕も無責任ですね。

 

伊藤 実は、今回の一連の原発を巡る反応を見ていて、ちょっとしたヒントのようなものがあった気がしています。というのは、「戦争」と「平和」の対立を「原発推進」と「反原発」に置き変えるなら、一般的なイメージとしては平和側が反原発で、原発推進派が戦争側のように捉えがちです。でも、そうじゃなく、逆だと設定して考えてみました。

 

今回、原発肯定側、もしくは反原発までは思い切れない側の人たちの根底にあるのは「電力を節約して、今ある豊かな生活を失いたくない」という思いです。つまり、今の豊かな生活を平和と捉えるならば、「この平和を維持したい」と思った人たちがたくさんいたということです。

 

一方、放射能の恐怖で動いたのが反原発側だったとすれば、「恐怖をあおる」という戦争のコミュニケーションの手法を使った側とも言えます。でも、今回の場合は「恐怖訴求」では勝てなかったわけです。

 

戦争とプロパガンダを考える上では、ここから何が読み取れるのかを考えないといけません。ぼくも含めて、間違いなく確実に国民の多くが、放射能についての恐怖をおぼえたはずです。

 

事故当初の時期は、ある種のパニック状態でさえあった。でも、最終的にはぼんやりとした平和に勝てなかったんです。前回の総選挙の結果でも、経済政策を打ち出した自民党が圧勝して、原発は争点にさえなりませんでした。そう考えると今回は、豊かさの維持を願う平和が勝った事例だとも言えますよね。

 

伊勢崎 つまり、民衆を動員する最も有効な手段が恐怖をあおることである。反原発派にしたら、最大の「チャンス」が巡ってきたわけですね。でも、それを十分に生かせなかった。

 

伊藤 そうかもしれません。確かに、放射能は恐怖そのもので、当初は「目に見えない」からこそ恐かった。けれど、目に見えない分だけ、逆に時間が経つごとにみんな馴染んでしまいました。同じ恐怖でも、やはり目に見えないものはいつか馴染んでしまうんですね。まさに、あいまいなイメージを持つ平和と同じです。

 

だから、反原発派としては、原発が無い未来をイメージしやすいようにPRするか、原発の恐怖を「見える形にする」しかなかったのではないかと思います。

 

そのことをどれくらい意識して作ったものか分かりませんが、3.11後に連載が始まった『ヒトヒトリフタリ』(ヤングジャンプコミックス)というマンガ作品があって、見えない恐怖を可視化する方法として、はっとさせられる手法を提示していました。

 

これはあくまでフィクションですが、物語の舞台は福島原発事故後の日本で、余命1年半と守護霊に宣告された日本国の首相が、その余命内にリーダーシップを持って反原発を進めるというものです。

 

その中で、彼が福島原発事故の現場視察に行くシーンがあるんですが、そこで国民に対してある行動をとります。何をしたかと言うと、コップに「汚染水」を入れて飲むんです。そして、「近い将来に自分の身体に出た異変が放射能の脅威だ」みたいなことを言うんですね。「汚染水」を飲むことで、自分自身を原発事故に見立て、見ない恐怖を見えるようにしたんです。

 

伊勢崎 それは、国民にはすごいインパクトでしょうね。放射能の恐怖が目に見える形で表れるわけですから。

 

伊藤 そうですね。しかし、現実にはそんなことはできません。いずれにしても、同じ恐怖でも戦争とは違い、目に見えないままの恐怖では、経済の豊かさを求めるエゴには勝てないことがよく分かりました。【次ページへつづく】

 


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