しっきーのブログ

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たぶん、僕たちは就職しなくてもいい



概要
  • 岡田斗司夫「僕たちは就職しなくていいのかもしれない」の要約と自分の考え。
  • そもそも岡田斗司夫の言うことって信用できるの?
  • 「これから社会は変わる!」と言い続けることが大事。
  • わかりやすいものがなくなった後で、僕たちは「自分は何が好きなのか」を考えるしかない。
  • 全力で気分よく生きろ!!



 岡田斗司夫「僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない」を読んだ。これから「就職」して働くのは無理だから、もっと別の働き方を見つける必要があるよ、という話。


僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない (PHP新書)

僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない (PHP新書)


 本書の考え方に賛同する人もしない人もいるだろうけど、僕と同じ年代の人にとって示唆に富んだ内容だと思うので、ざっと要約してから自分の意見を書きたい。


働くための就活がつらいなんて、そんなの絶対おかしいよ

 いつの時代も生きていくのは大変で、働きたくなくても働かないといけないんだろうけど、「就職活動」の時点で異常にしんどいっておかしくない?もちろん実際に働いてからもつらくて、多くの人間が数年以内にせっかく努力して入った会社を辞めてしまう。

 就職できなかったり、入社してすぐ辞める大学生が全体のほんの数パーセントなら個人の責任だと言える。でも、うまくいかない層が数割もいるのなら、制度のほうがおかしいと考えるべき。常識的に考えて。


「働く=就職」である必要ってなくない?

 本書は、「働いたら負け」だから働かなくてもいいと主張してるわけではない。人間は働いたほうが充実するようになってるし、よっぽど特殊な人間じゃないかぎり働いたほうがいい。ただ、「働く=会社に雇われる」という選択肢しかないというのは少し視野が狭いのではないか。


 そもそも「働く=就職」が当然という価値観は高度経済成長期の産物だ。1950年代の日本では女性の就職口なんてほとんどなかったし、男性でも全員が就職しているわけじゃなかった。大半の仕事は「家業」で、「工事の日雇い」や「店の手伝い」などのアルバイトみたいな雑用だった。

 でも今は、男女問わず全員が「就職」して、特定の会社で一生働き続けなければならないとされている。すべての国民が「就職」することを考えるなんてかなり異常な事態。高度経済成長期ですら、女性の人権が制限されていたこともあるが、誰もこんなことを考えてなかった。

 妻に衣食住をサポートしてもらえるのが前提の「男性正社員」モデルで国民全員が働くとか狂気の沙汰。「女も男と同じように就職できる」ではなくて、「男も女も就職できない」という形での男女平等のほうがおそらく現実的だし、現実にそうなりつつある。


なぜ就職できなくなったのか?

 どうしてみんな就職なんで苦しんでいるのかというと、就職できる仕事の絶対量が減っているから。必要な仕事はたくさんあっても、必要な「職業」という枠組みは減り続けている。

 一つの産業が潰れたらその分だけ新しい産業が生まれて、求人の絶対数は変わらないなんて大嘘。そんな前提を信じてるのは頭の悪い経済学者と財界人しかいない。大勢の中抜きの職を奪ったGoogleやAmazonは、少数精鋭の中規模の会社だ。デジタル化や効率化は人の「職業」を奪う。

 高卒でできる仕事がなくなり、大学に行かざるをえなくなって、もともと少ない大卒の職をもとめて過剰な競争が起こる。そして、その希少な大卒の仕事さえこれからなくなっていく。


 年功序列や終身雇用なんて、人口ボーナスや国際状況など色んな運が重なった、一番経済が良かった時代に描かれた幻想だ。現在の日本の企業の平均寿命は7年、アメリカは5年。さらに、これから技術革新が起こるたびに一つの産業が潰れ、「職業」に就ける人数が減っていく。


「単職」から「多職」へ

 今までの安定は「所属していること」だった。安定した所属を持っていない限り、またはその立場を持った人の妻でない限り一人前の人間とはみなされなかった。でもこれからは、新卒で入った会社が定年まで持つ可能性はかなり低いし、「◯◯に勤めています」という形で信頼を得たりアイデンティティーを確率するモデルには無理がある。

 だからこれからは、「多職」という形で、多くの仕事や関わりを持ち、あらゆる方面にヘッジをかける動的な安定を目指したほうがまだ現実的だ。その「職」の中には、金銭を得られない「お手伝い」とか「趣味」とか「遊び」なども入る。金に結びつかないコミュニティでも、余ったご飯とかいらなくなったものを譲って貰えるかもしれない。そういう繋がりがセーフティーネットになる。困った知り合いがいたら皆で積極的に助けたりサポートしてあげる。コミュニティや信頼関係を復数持つ形で安定をはかる。


 そういう多職の時代には、「所属に対する評価」よりも「個人に対する評価」が顕著にあらわれる。また、SNSの発展により、個人の評価が可視化されやすくなる。みんなから良い評価を得る必要があるので、わかりやすい形で誰かの役に立つ仕事が主流になってくる。金にならなくても、困っている人を助けるという行為に(評価)経済的なインセンティブが働く。税金をを集めて政府に再分配してもらうより、良い評価を得たいから困ってる人を助けるというやり方のほうが効率がいい。


 経済というのは、必ずしも「金」である必要はなく、何かが流通すれば経済になる。それぞれがそれぞれの「評価」をぐるぐる回し合い、それが活発になっていけば評価経済になる。

 「この人は◯◯の社員」「この人は◯◯円持っている」という評価のされ方よりも、「この人は◯◯をしているからいい人だ」とか「この人は◯◯さんに紹介されていたから」みたいな評価のされ方が有効になってくる。


評価経済の足音とは

 「評価経済」とは、貨幣経済では測れない「人気」などが流通していく経済のことで、今はそれが芽生えつつある。もちろん金がなくなるわけじゃないし、金を稼いで生きていく人もいる。それでも、今よりは金の権威は落ちていく。

 作った米や野菜が食べきれないからあげるとか、空き部屋があるから住まわせてあげるとか、誰かが困ってるからみんなで助けてあげようとか、このクリエイターの作るものはすごいから支援してあげようとか、金を介さない直接的なやりとりが多くなる。

 金に頼る人が少なくなれば、金を稼ぐことがもっと難しくなるし、金だけで手に入るものは少なくなっていく。このようにして、金の力は今よりも落ちていく。


 今の若い世代の多くは、同人で作品を作ったり、アイドルや声優になりたがったり、ボランティアに参加したり、動画を撮ってYouTubeやニコ動にあげたり、ブログやTwitterで情報を発信したりしている。そういう人がどんどん増えているので、評価経済の高度経済成長期が始まりつつある。


本買わなくても動画見ればいいよ

 本書は、岡田斗司夫が特別に気合を入れて書いたというわけじゃなく、ニコ生や講演で言ってることを「お手伝い」の人達が書き起こしてまとめたものだ。本買わなくても動画を見ればだいたい同じようなこと言ってる。





 ただ、本のほうがテキストの形でわりとよくまとまってるので、読んで損はないと思うよ。

 そして、これからは本書を読んだうえでの自分の考えを書いていきたいと思う。けっこう長いので暇な人だけどうぞ。



そもそも岡田斗司夫を信用できるのか?

 岡田斗司夫ってなんか胡散臭い感じがあるよね。これは島本和彦先生のせいもあるかもしれない。岡田斗司夫という人物が信頼に足るのかどうかはちょっとわからないけど、必ずしも発言者とその内容を結びつける必要があるわけじゃない。

 僕は、評価経済社会という考え方はこのブログでも何度か取り上げてるし、それなりに有用なものの考え方だと思う。



アオイホノオ 7 (少年サンデーコミックススペシャル)

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 僕が岡田斗司夫の話を聞くに足ると思っている理由は、もともと具体的なお悩み相談から始まって理屈を組み立てているからだ。

 つまり、「就活したけどどこも採用してくれないんですが、どうしたらいいですか?」という質問に対して、「死ぬ気で就活しろ!これでダメだったらもう自殺するしかないぞ!一生負け組だぞ!」と言うのと、「これからは単職より多職の時代だから、必ずしも「就職」にこだわる必要はないよ。別の戦い方があって、そのために努力すればいいんだよ」という回答なら、後者のほうがまだ建設的だと思うからだ。


これから生きていくために必要なことは何か?

 「評価経済社会なんてただの妄想だ!だいたい、人に好かれるように生きていくのってかなりストレスフルだろ!なんだかんだ言って金が便利だし大多数はそっちを選ぶに決まってる!」みたいな批判はよくあると思うけど、的外れだよ。

 そりゃあ今までどおり金を稼いでやっていければそれに越したことはないだろうけど、それができなくて今困ってるわけだから。どうやっても就職できない人が、「就職できない人間はダメ」みたいなことを考えたって苦しいだけで何の進展もない。

 それに、「金」をベースにして考えるなら、あまりにも理不尽な世代間格差に直面せざるをえないし、今から無限に経済が成長していくみたいな前提も、僕たちの世代はもう一部のバカ以外信じてない。


 自分なりに岡田斗司夫の考えを整理するなら、まず、生きていくために必ずしないといけないことを2つに分類する。


 ①金を稼がないといけない

 ②人に評価され(気に入られ)ないといけない


 ①と②のどちから片方をクリアすれば生きていける。①金があれば衣食住不自由なく生きれる。②評価されるというのは、家族だからとか、神職に勤めてるからとか、天皇陛下だからとかも含む。ようは、衣食住を誰かに与えられれば生きていける。


 岡田斗司夫の考えは、今までは「金を稼げること」が標準的な大多数の生き方として設定されていたけど、これからは「金」と「評価」のハイブリッドになっていく、ということだと思う。


 現在は、まだ「金」優位の社会だと感じる。だから、大企業の社員は田舎で物々交換してる層を下に見る。ニコ動の有名人がお金や物品を貰っていたりすると「乞食」と言って非難される。

 だが、「金」優位の社会で想定される最低限の「金を稼ぐ」ということが、多くの若者にとって難しくなり、技術や文化の後押しもあり、だんだん「評価」のほうに比重が傾いてきている。「やらなければならないこと」のあり方が変われば人々の意識も変わるし、みんなの求める物は「金」だけあっても手に入れられないものになる。

 金があれば快適に暮らせることに変わりはないだろうけど、みんなが金を使わなければ「金を稼ぐ」こともどんどん難しくなる。だから将来的には「金」よりも「評価」が優位になっていくんじゃないかな、ということだと思う。


 理想や思想で何かが変わるみたいな考え方ではない。「必然」に動かされて社会が変わる。これから先、「金を稼ぐ」生き方と、「評価を集める」生き方の、どちらが楽か。もちろんそれは人によって違う。金を稼いだほうが楽という人もいるし、評価を得るほうが楽という人もいる。

 ただ、「金」と「評価」のどちらの生き方でも、もちろんその中間でも、色んな人が生きやすくなって、今のように「金」しかダメということはなくなる。だから、どうしても金が稼げない人は、愛想良くして、「評価」を集める方向で努力してみるのもいいんじゃないかという、あくまで「お悩み相談」に対する回答だ。


これから社会は変わっていくのか?

 「これから新しい社会がやってくる!」「今が時代の転換期だ!」みたいな言説は世に溢れてるし、みんなうんざりするくらいチープに感じるかもしれない。でも僕は、そういうことをうんざりするほど言ってみるのも悪くないかな、と思ってる。それは、「今あんまりうまくいってなくても人生を諦めたり無駄にふさぎこんだりするなよ(´・ω・`)」というメッセージになるかもしれないからだ。うまくいかない人が多いときには、胡散臭くてもいいから「時代は変わる!!」って言うべきなんだ。


 少し前に、うまくいってた時代があった。それは幻想だったんだけど、その幻想を当の僕たち自身がそれぞれの形で受け継いでいる。だからこそ、問題は根が深い。


 例えば、子どもをどう育てていくか、あるいは子どもを産めるのか、という問題。

 経済発展と貿易の自由化で、食品や消費財、娯楽品は格段に安く豊富になった。でも、外国から輸入も外注もできない日本人によるサービスや土地は安くならない。だから、相対的に学費や保育費や居住費はものすごく上がっている。僕たちの世代の平均的な夫婦が、今の養育費と給与水準で2人異常の子どもを大学まで出すのはどうやっても不可能。それでも、「今までどおり」親は子どもを大学まで行かせるべき、という価値観は強く残っている。

 「子ども大学まで行かせなくてもいいから産もう」なんて親が言っちゃうと、「子どもがかわいそう!親の道具じゃないのに!」とか「責任を持てないなら子どもなんて産むな!」という罵声がとんでくる。そういうことを言ってしまうのは、おそらく上の世代だけじゃない。大学まで行くことができた僕たち自身がそう思っちゃってるんだ。

 「大学出てないと人として認められない社会を次世代に残すほうがかわいそう」とか「そもそも大卒ですら仕事に就けないじゃん」みたいなことはなかなか考えられない。


 上の世代の言うことを真面目に聞くと損をする社会は恐ろしい。かつての価値観の耐用年数は切れている。でも、「もうそんな時代じゃないんだよ。バーカ!」と言ってすべてを否定することはできない。今の僕たち自身がちゃんとその恩恵をあずかって、ところどころでその価値観を内面化して生きているから。

 僕たちが「良い」と感じるものだって、否定するべき上の世代と避けがたく繋がっている。



 以前こういうエントリーでも書いたけど、例えば漫画やアニメの主な舞台である「学校」なんてものは、「所属」の時代の価値観の最たるものだ。サブカルチャーの領域でさえ古い価値観は再生産され続けているし、僕たちの憧憬の少なくない部分はそこに占められているのかもしれない。



 たぶん僕たちは、「就職」や「学校」を否定することによって、このごろテレビで盛んに取り沙汰されている「クールジャパン」とか「技術大国日本」とか、「誠実さ」とか「勤勉さ」みたいな日本の美徳みたいなものが失われてしまうのではないかと、どこかで不安に思っている。

 昔の武士は、藩に不平があれば諫死しました。さもなければ黙つて耐へました。何ものかに属する、とはさういふことです。もともと自由な人間が、何ものかに属して、美しくなるか醜くなるかの境目は、この危ない一点にしかありません。

 みたいな話だよね。

 そして、「所属」を持てた社会から、「所属」を持てない社会に移行するとき、僕たちは、もともと日本が持っている陰湿な性格の悪さとか、バツの悪い感じとか、世間に顔向けできない恥みたいなものに直面することになると思う。上の世代と違ったルールで生きることになるなら、これはある程度さけられないし、日本で育ってきた僕たちだからこそ耐え難いほど憂鬱になる。  
 金も所属も持ってなくて、これからも持つ見込みがない人にとって、「金」をベースにした社会より、「評価」をベースにした社会のほうがおそらくまだマシなはずだ。本当に困っている人を助けるために働けるかもしれないし、そんな自分にプライドを持てるかもしれない。でも、そういう社会に対しての確信は持ちにくい。何か大切なものを失ってしまうかもしれないという不安があるし、日本のジメジメした嫌な部分と向き合わなければならない憂鬱は人の気力を削ぐ。

 でもね。逆に考えるんだ。そういう日本に僕たちがいて、不安で憂鬱にならざるをえないからこそ、自分たちの生き方を変えていく資格があると考えるんだ。結局のところ、何事も手探りでやっていくしかなくて、そういうひねくれた理屈とプライドを持つみたいな考え方しか、僕には思いつかない。それじゃだめかな?

 まあこれは、「自分がリア充になって女の子と遊ぶよりもリア充的な価値観に敵対したほうが面白いし気分がいい」みたいな、クソみたいな考え方で僕が生きてるからかもしれません。因果なものですな。


ジョジョの奇妙な冒険 1~7巻(第1・2部)セット (集英社文庫―コミック版)

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自分が就職できても、みんなが就職するべきだと思ってはいけない

 自分の言葉のフェアネスのために言っておくと、僕は、もし自分が立派な企業に就職できるなら、就職するよ。絶対に後悔するし損するとわかっていても、たぶん入社してしまう。

 このサイトははてなブログでほぼトップのPVがあるし、広告貼ったから収益もある。単著も出したければいつでも出せる。今はバイトも続けてるし、ちょっとした仕事ならもらえるつてもある。それでも、超有名企業の内定が貰えたとしたらそっちに行っちゃうと思うんだよね。

 僕はそれくらいしょうもない人間だ。勉強もしてこなかったし技術もないし、女性にもモテないので、最終的には枠組みみたいなものに惹かれてしまう気がする。正社員になれれば結婚できるかなとか考えちゃうんだよね。どれだけ理屈で考えてわかっていても、新しい選択をするにはものすごい勇気と労力がいる。


 就活で悩んでる学生は絶対にバカじゃない。先の見えない、不安定でリスキーな社会だからこそみんなが安定を求める。みんな損するとはわかっていても、就職してしまう。今の社会の圧力はそれくらい強いよ。きょうび「リスクをとれ!」なんて声を大にして言うような奴はその発言になんのリスクも負ってないし、無責任で安全な立場にいるからそんなことが言える。



 岡田斗司夫の話のもう一つの示唆は、もし万が一、自分が就職できてエリート会社員になった場合、そうなっても、絶対に自分の待遇や価値観を他の人に押し付けたりしないことだ。それをしてしまえば不幸になる確率が高くなる。評価経済社会とはそういう恐ろしい社会でもある。

 自分が一日平均12時間働いていて、同世代のやつらが定職も持たずにぶらぶら楽しそうにやっていても、絶対それを攻めるべきではない。「所詮この世は弱肉強食。強ければ生き…」みたいな価値観で生きるようになったら、それこそ決定的に損をしてしまう。それが岡田斗司夫の示した未来の社会像だ。


 岡田斗司夫自身、就職できるならとりあえず就職したほうがいいと行っている。ただし、就職できるかできないかは運にすぎないので、就職できた人は就職してない人を絶対に馬鹿にしてはいけない。他人を憎んでしまうほどの激務なら、それは会社が悪いのであって、他の就職できない人達が悪いわけじゃない。


「わかりやすいものがない」という「わかりやすさ」

 安定し、うまくいっていた時代に形成された人々の意識は、それ以外の生き方への不寛容をもたらす。まず認識するべきなのは、かつてのような「わかりやすさ」がなくなっているということ。家族全員がテレビの前に集まってマスメディアの情報を頭に入れる時代ではない。趣味や興味も細分化してるし、岩波文庫全部読んだって教養があるとは言われない。

 ただ、わかりやすいものがなくなっても、同質性の比較的高い日本人としてこれからもやっていくしかない。「自由と平等デース!HAHAHA」って言いながら一番格差と差別がひどいところの考え方を持ってきても無理があると思う。



 わかりやすいものはなくなってしまったけど、あらゆるものがわかりにくい、という点ではわかりやすい。たぶん僕たちは、「わかりやすいものがない」という「わかりやすさ」に頼ってやっていくことくらいしかできない気がする。もっとくだけた言い方をするなら「みんなそこそこつらい(´・ω・`)」くらいを落とし所にするのがいいんじゃないかと思う。


 だから、「俺は働いているけど、あいつは働いていていない。フリーライドだ!ずるだ!死ね!」みたいな考え方をしてはいけない。社畜でもニートでも、リア充でも非モテでも、DQNでも体育会系でもオタクでもオタサーの姫でも、成功者でもネットで延々と批判をしてる人でも、みんなそれなりにつらい。いや、実際にどうかはわかんないんだけど、「みんなつらい」って思うしかないんだよ。お互いがお互いの状況に対して慎重になるしかない。



 「社会は◯◯だから自分は◯◯であいつは◯◯だ」、みたいなことを言えない社会とはどういうものなのだろう。以前のエントリーでも書いた「評価経済社会」では、パラダイムが「宗教」→「科学」や「経済」→「今の自分の気持ち」というふうに変化してきていると説明していた。「自分の気持ち主義」に社会がなっていく。

 「わかりやすいものがない」時代には、「自分は何が好きなのか」「自分は何をしていれば充実して暮らせるのか」という形で自分のあり方を定めるしかない。そういう時代の空気を僕たちは感じているし、この流れはもう避けられない。

 リクルート企業というのは、その潮流を逆に利用して「就活」とくっつけようとするから悪質なんだよね。だからこそ、「就職」とは別の働き方を考える必要がある。


評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている


「全力で気分よく生きる」という新しい戦い方

 今までの価値観では、わかりにくいことが増えている。

 例えば、現代の貧困というは、みんなが素朴にイメージするような、お腹が空いてて服がボロボロみたいな感じじゃなく、住所や教育費が払えなくて鬱になって底から這いあげれなくなる…みたいな感じなんだよね。食品や物品は安いけど、その分だけ子どもを見ていてもらうとか、勉強を教えてもらう、みたいなものの値段がものすごく高い。

 こういう種類のものって、ちょっとしたコミュニケーションとか周りとのやりとりで、意外となんとかなったりするものが多いかもしれない。暇だから子どもを見ててあげてもいいみたいな人はたくさんいるだろう。評価経済の枠組みで解決しやすいものに、今は高い値段がついている。



 そう簡単に今までの仕組みが変わるわけじゃない。岡田斗司夫が言ったことは、あくまで一人ひとりへの具体的なアドバイスだ。


* もし仕事が見つからなくてニートでも、無駄に落ち込んだり自己否定したりせずに、家事とかちょっとしたお手伝いとかを積極的にやろう。できれば友達をつくって外に遊びに行こう。機会があればボランティアとかにも参加してみよう。 * 就職できた人は就職できない人を見下さないようにして、金稼げればいいと思わずに周りの人との関係を良好に保とう。どうしても周りを見下したくなったり鬱になりそうなくらい仕事がきつかったら、それは働かない人が悪いんじゃなくて会社が悪いんだよ。


 特別おかしなことも珍しいことも言ってないよね。でも、そこから「新しい社会が始まる!!」くらいまでの理屈を組み立てるのはすごく大事なことだ。それくらいわくわくするものがあったほうが、みんな行動に移せるかもしれないから。



 時代が進んでどれだけ技術が発展しても、人の暮らしが激的に楽になるなんて夢のようなことは起こらないと思っておいたほうが無難だろう。ただ、それぞれの戦い方が今までとは違ったものになる。

 昔だって、今ほどじゃないけど金を稼ぐのは大変だった。僕たちも、別の形で同じだけの努力をする必要がある。


 正社員とその妻になれた「まともな」人間以外は子どもを産んではいけないのか?職を持てなかった人間は、マスメディアで報道されたり漫画やアニメで描かれるような、部屋に引きこもって壁ドンで飯を持ってこさせるような「典型的」なニートでなければならないのか?生活保護や障害手当を貰っている人間はうつむいて生きていかなければならないのか?

 そんなわけない。自分のことを卑下したり、それを社会が強要して何かが解決するなんてことは絶対にありえない。


 でも、懲罰的な言葉が止むことはないと思う。ネットは新しい社会の可能性をもたらしてくれたけど、そのかわり悪意や怨念も可視化されて至る所に溢れるようになった。

 これからは、頭の中の因果律を持ちだしてヘイトを振りまくような行動が不利になる社会をつくっていく必要がある。でも、ネガティブな言葉を持ちだしてそれに対抗することはできない。


 評価経済とは、ポジティブな評価を回し合うことで成り立つ。だからこそ、僕たちは、どんな状況でも「気分よく」生きなければならない。「優雅な生活が最高の復讐」なのかはわからないけど、とにかく、下手に自分や他人を責めないないこと。これが評価経済の時代の戦い方になる。



 全力で気分よく生きようとする人は、コスプレして渋谷にゴミを散らかしていくような輩とは真逆だよ。評価経済の中で自分勝手にやって周囲に好かれるわけがない。自分も、周りの人達も、みんなが気分よくやってけるように配慮しなきゃいけない。

 誰だって人に気を使って生きていきたくはないと思う。でも金稼げないんだからしょうがない。これからは、自分はダメな人間だと落ち込まない。無理をしてでも楽しく生きる。困ってる人は積極的に助ける。色んな人との繋がりを大事にする。そういう戦いになっていく。

 当たり前だけど、楽なことじゃないよね。でも仕方ないので、みなさん頑張って気分よく生きましょう。僕も頑張ります。



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