普通の知的生産がある生活

率直に言うと、「達人」になる必要はありません。

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11月3日に行われた上記のイベントでは、『知的生産の技術とセンス』という本に絡めてジャーナリストのまつもとあつしさん、ブロガーであり科学者でもある堀正岳さんのお二人のお話が聞けました。

知的生産の技術とセンス ~知の巨人・梅棹忠夫に学ぶ情報活用術~ (マイナビ新書)

まつもとさんは「インプット」、堀さんは「アウトプット」がセッションの主なテーマでしたが、それぞれが逆のテーマについても触れられていたのは印象的です。つまり、インプットとアウトプットは独立して存在しているものではないわけです。互いに影響し合っている。そういう視点は外してはいけないでしょう。

3つめのセッションでは、私もトークに混ぜて頂きました。「何か入れたい質問はありますか?」と事前に問われたので、自分のアウトプットのモデル・目標・あこがれ・原風景といったものが何かありますか、という質問を提示しました。アウトプットとインプットは互いに影響し合っている。だとすれば、どういう方向性でアウトプットを打ち出すのか、というメタな視点もまたインプットに影響を受けているはずだからです。子どもは親の背中を見て育つ、的な。

つまり、「有益な情報を得るためのインプット」とはまた別のレイヤーにある、「何かの姿勢を学ぶ」というインプットもあろうかと思ったのです。そしてそれは、突き詰めれば「何を・どう書くのか」の一番小さな結晶になるだろうことも予想できます。その小さな結晶を、インプット・アウトプットを経て大きく育てていくのが、人の生活であり、知的生産を内包する人生でもあります。

日常的に儲けるために書かれたブログを読んでいる人と、とにかく何かが言いたいという動機で書かれたブログを読んでいる人と、世界に対する献身__あるいは市民としての責務__として書かれたブログを読んでいる人。各々が、自らの内側に抱く小さな結晶の色合いはきっと違っているでしょう。

それは大きな声では語られないのかもしれませんが、結構大切なことです。

考える生き方

どんな結晶でも大きくすれば良い、とは言えません。やっぱり色合いは大切です。自分が好みの__別の表現をすれば納得できる__結晶にしたいところ。それを外してしまえば、きっと楽しくありませんし、続きませんし、本当に面白いものも出てこなくなるでしょう。

日常的に考えたこと、気になったこと、調べたこと、思いついたこと。それらを気負わずに書いてみる、というのは案外大切なことです。それは自分の関心に敏感になるということですし、鏡を覗き込むことでもあります。

もちろん、その際は人に読まれる文章を意識しなければいけません。完璧とはほど遠いにように思えても、文章を整えるのには意味があります。意義があります。大きなアウトプット、偉大なる知的生産。そうした大目標にたどり着くためには土台が欠かせません。

梅棹さんは「発見の手帳」に豆論文を書いていく、と記されました。最終的にそれは手帳ではなくカードに書かれるようになったらしいのですが、それをブログに書くことだってできるのが現代です。

知的生産の技術 (岩波新書)

「達人」というと、頭一つ飛び抜けた存在みたいなものが思い浮かびますが、別に普通で良いのです。普通の生活で良い。むしろ、気負いすぎると歩幅が大きくなりすぎて踏み外します。自分の感度、価値観を見失ってしまう。それは避けたいところです。

世界をくるっと見回してみて、何一つ関心・好奇心を抱かないのならば、情報発信とは別のことをやった方が良いでしょう。でも、もしそれがあるならば、ステップを踏み出すことであたらしい風景が見えてくるかもしれません。結晶が育ち始めるかもしれません。

もう一度書きますが、別に普通で良いのです。

人生の風景を増やすために、達人になる必要はこれっぽちもないのですから。

元祖ライフハック=「知的生産の技術」とセンスを磨いて情報発信の達人になるには? #梅棹本 トークイベント実況ログ(togetter)

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