25歳ニート女子のルサンチマン

25歳のニート女が書き散らしているだけのブログ

非常識な行動に対して穏やかになること

穴場のタリーズ見つけてめっちゃうれしい。地元でも新しいところや知らないところはやはり歩いてみるもの。



 

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さて、私たちは家から一歩外に出るとそこはパブリック、公共の場に降り立ちます。



公共で、みんなが共有しているのだから、秩序が乱れぬよう、そこでは自儘に振る舞うことは許されないルールが制定されていますね。


ところが非常識な行動を取るアウトローは当然います。

 




歩行喫煙やポイ捨て、非常識な子連れの親、図書館の本に線を引いたりね、非常識なことをする人ってとても多いですね。

そのマナー違反に対して、異常なまでの怒りを示す人もまた多いかと思います。

 




ところが最近、いちいちそういうのに嚇怒していてもなぁ、と思い直し始めました。




 

私もそういうの全く許せない性質で、電車の中で大声で電話したり、図書館で自分の部屋のように喋り散らしている人たちを見て殺意を芽生えさせていたものです。



 

今ももちろんマナー違反や非常識な行動は迷惑だと思うし、許せることではないんですが、怒ったところでどうしようもないんですよね。注意するわけでもないし。

あっちは好き勝手やって楽しんでいるのに、ルールを守っている自分だけが嫌な気持ちになるなんて不公平も甚だしいのですが、世の中は因果応報にできているわけではないということに気づかなければいけません。





上のような不公平がまかり通る現実です。

最低な人間が絶対に不幸になるわけでもないし、清廉潔白な素晴らしい人間が必ずしも幸福でいっぱいになるとは限らないのです。




 

この諦観って大事じゃないかなぁと。




 

そもそも、マナー違反に我慢がならない人は、自分がマナーを守っているからですよね。

いや当然のことなんですけど。



「自分はマナーを守って公共の場を気持ちよく過ごそうと努めているのに、なぜお前だけが好き勝手に振る舞って許されるんだ」

という怒りがあるわけです。我慢しなさい、と言われて育った子どもは、他の人が我慢しないことを許せない人間に育つそうです。



 

マナー違反に対して本当に異常なまでの殺意を示して「死刑!」なんて声高に叫んじゃう人は、普段からのやり場のない怒りをマナー違反者にぶつけることで憂さを晴らしたいという側面があるのではないかと思うんです。



 

たとえば死刑囚を人体実験に使ったりするのと同じことで、社会にとって完全悪であるマナー違反者に対しては何をしてもよいという免罪符を獲得している気になっている。




 

これってもちろん社会にとっては「マナーのある善人」になるんでしょうけど、社会のために自分の心の豊かさを犠牲にしている気がする。




 

当然マナー違反は減らさなければならないし、非常識な行動を取る人は私も大嫌いですが、そういう人たちに対して自分の怒りの感情をむき出しにするのも惜しい、もったいないと思い始めました。



それに、彼らを犠牲にして鬱憤を晴らそうと思っている自分もなんだかいやです。


怒るんですけどね。

 




電車で順番を抜かされたり、歩き煙草の煙がもろに顏に当たったり、よくされます。とにかく己のことだけしか考えずに行動している人たちに対して不愉快な思いでいっぱいです。




でももう怒っても仕方ない。

嫌な気持ちになるのもやだ。

 



非常識な行動を許すのではなく、「おやおやまたか」くらいの穏やかな気持ちでいて、無関心を決め込む方が自分の心にとってよい気がするのです。

 




確かに非常識な人はたくさんいますけど、それでも圧倒的に常識のある人の方が世の中には多いわけですし、非常識に生きている人たちになんか構ってられません。構っている暇があるなら一曲でも多く好きな歌を聴くし、一ページでも多く好きな本を読む。




 

 

こういうのって冷たい態度かなとも思うし、日本人の礼儀正しくて優しいという国民性を裏切っているのかなとも思ったりしますが、怒ったり注意したりしたところでその人が私の諫言ごときで態度を改めるわけもないし。

 




たとえばNo Warみたいな大規模なレジスタンスとかはまぁまた別の話になっちゃいますけど、非常識は非常識を取り締まる警察というしっかりした行政機関があるのだから彼らに任せて、私たちは無理に小さな悪を罰してやろうと激怒するよりは、穏やかに過ごすことに専心してもよいのではないかなぁと。