初代聖剣伝説「マナの神殿」は誰もリメイクできない

Nintendo Switchで『聖剣伝説コレクション』がリリースされたのもあり、ひさしぶりに聖剣伝説シリーズ関連の音楽を聴いている。

スクウェアのピクセルアート技術が乗っていたFC-SFC時代。聖剣伝説シリーズの全盛期と言える3作目まではウェットな物語に感情移入を促すような作り方を特色にしていた。しかしあらためてゲームボーイの初代聖剣伝説のBGMを聴いていると、ひとつだけ異色の楽曲が存在する ことがわかる。最後の場所であるマナの神殿の音楽だ。

ゲームボーイのわずかなスペックながらも魅力的な演出と楽曲によってここまで感情移入させてきたなか、結末間近にきて凄まじくドライな世界に放り込まれる落差。そのミニマルな楽曲は、ある意味で当時のスクウェアが離れようとしていた生々しい(当時の)ゲームの構造そのものに引き戻される衝撃がある。

ところがこのドライさは以後のリメイクではほとんど再現されていない。初代聖剣伝説はGBAでの「新約」から原作をオールカラー化したモバイル版、そしてiosでの3Dリメイクに伴い音楽も変わってきた。楽曲を担当した伊藤賢治などのアレンジアルバムも含め、原曲の躍動感を活かすようによりドラマティックな編曲が為されたり、演奏に溜めを作ることで情感を生もうとしている。しかし、「マナの神殿」に限っては当時ぎりぎりで積み上げられた感情移入を最後に覆されるような緊張感を与えてくれる楽曲にはなっていない。むしろ冷たいミニマルさをかき消すように情感あるアレンジで温度を足す。

このことはピクセル時代はなつかしかったよね。みたいな話題にながれてしまいそうだけど、そうじゃなくていまの時代のいくつかのインディーゲームにだって繋がるミニマルの冷たい美しさと感情移入させる大仰な演出のせめぎあいで生まれる間合いの話だ。それが「マナの神殿」の原曲とリメイクやアレンジの差にあるといっていいかもしれない。

8bit・16bitのピクセルアートや、競技性に少々囚われやすくもあるRPGのゲームデザインそのものはある種、感情移入を許さないドライなものともいえる。情報量の少ないそこで旧スクウェアはありとあらゆる演出手段を駆使し、感情移入できるウェットなデザインに仕立て上げることが優れていた。

特にSFCの16bit時代ではドライさとウェットさが奇跡的なバランスを取っていた時代ともいえる。使える色彩の数が莫大に増加、さらには拡大縮小回転機能により疑似3Dマップが作れるようになるなど、ピクセルの範囲であるにもかかわらず作品世界をさも本当にそこにあるかのように描きだすこと(いわゆるイリュージョンというやつね)を得意としていた。

記号的でありながらもリアリスティックなグラフィックス、情緒的なキャラクターとシナリオを表現する。ゲームメカニクスやルールによる競技性をプレイヤーに問いかけること(俗にゲーム性と言い換えてもいい)を第一にするのではなく物語とキャラクターを活かすための二次的なものにした。その方向はある意味では、アーケードと違い誰でもクリアすることができるように作られやすい国内のコンソールだから起きた試みだ。ともかくピクセルアートやゲームメカニクスが孕んでいるドライさをかき消すようなウェットな演出はこのころに完成していて、現在に至るも続いている。

ところが表現能力の増大によってウェットな演出が当たり前になってしまうこともあったのか、現在ではピクセルアート&チップチューンの持つドライさとそれを何とかしようとするウェットさがギリギリのところでせめぎ合うあの感覚までは、どんなリメイクでも再現できてはいない。初代『聖剣伝説』はIOSにてフル3Dでリメイクされ、プラットフォームに合わせたリングコマンドなどシリーズのエッセンスをうまく取り入れた点などとてもよいバランスで作られている。しかし一方で、やはり現行のスマートフォンのゲームのアートデザインのような保守的なビジュアルであることは否めなく、買い切りの『白猫プロジェクト』にしか見えなくなってしまうのはネックである。(とはいえ、BGMをオリジナルのGBモードに切り替えられるモードを搭載しているように、リメイク製作側も「どうしても再現しきれないなにか」に気付いてはいると思う)

ではもうドライとウェットがせめぎ合うバランスは現代では成立しないのか?あの時代だから成立していたのか?というとそうではない。現代では往年のピクセルアート&チップチューンを再評価(レトロゲームはいいよねという懐古から、いやこれこそがなにか本質があるのだといった再解釈にいたるまで)を経て、それはもはや懐古を超えて、ピクセルでしか実現できないドライさを自覚的に作品にしているケースが、スマートフォンからPCのインディーゲームなどでいくつか垣間見える。

たとえば最近PSでもリリースされた『Hyper Light Drifter』は現代のフラットデザインとも混ざり合ったようなデザインのピクセルアートを押し出した作品で、全てをプレイヤーの解釈にゆだねたドライな世界に叩き込まれた作品である。安易な感情移入を促す演出の排除は徹底しており、テキストによる会話すら無くしてしまい、全てをビジュアルで説明していくという手法をとっているほどだ。『聖剣伝説』と同じアクションRPGということで比較してみるとまさに全編が「マナの神殿」に叩き込まれたような体験になっている。

ウェットな演出が優れた点はプレイヤーに作品の解釈を一方向に仕立て上げることで、解釈とは一方で自発的に考えなくてはならないストレスでもあるためプレイヤー自身があんまり考えなくてよいという負担を取り除いてくれることがあるとおもうが、往年のスクウェアがとくに凄まじかったのはそこかなあ…とも改めて思ったりも。ほらドラクエとかff以前のCRPGのプレイヤーにかけられるルールとかプレイビリティとかストーリー解釈などそれぞれの負担の大きさを考えると、日本のRPGの良いところってむしろ解釈を単純化しちゃうことでプレイヤー側の負担を減らして、かつ快楽部分を最大限にしていくことかもね、とも。脱線してますね。

いまの目で『聖剣伝説コレクション』を振り返ると、かつてはピクセルアートが本来持ってるどうしようもないくらいのドライな感覚をどうにかしようとウェットに仕立て上げてきた時代があったことを確認できる。しかし初代聖剣伝説の「マナの神殿」にたどり着くたびに、なにか感情移入を促すように積み上げてきたものががらがらと崩れ去るような思いになるのは変わらない。そして現在では、ウェットな感情移入からあえて離れ、ピクセルアートの持つドライさに自覚的なデザインの作品が現れている。「マナの神殿」のあの感覚はスマートフォンの、インディーゲームの区分にて続いている。

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