映画『この世界の片隅に』描かなかったことの大切さ(ネタバレなし感想+ネタバレレビュー)

映画『この世界の片隅に』描かなかったことの大切さ(ネタバレなし感想+ネタバレレビュー)

今日の映画感想はこの世界の片隅にです。
※12/2:ラジオ感想レビューを追加しました!
※12/10:All Aboutの記事を更新しました!

個人的お気に入り度:9/10

一言感想:この選択で、よかった。

あらすじ

昭和19年、広島市にいた絵が得意な少女・浦野すずは、呉に住む青年・北條周作のもとに嫁いだ。
すずは不器用ながらも懸命に暮らしていたが、空襲が度重なり……。

同名コミックのアニメ映画化作品です。

そのジャンルを分類すれば「戦争もの」になるのですが……この作品は戦争に向かう兵士の様子ではなく、あくまで戦争中の日常生活を描いています
しかもその生活は決して悲惨なものではなく、クスクス笑えるシーンも多かったりするのです。

とんでもない出来事が起こったとしても、人々の生活とはそんなものかもしれませんよね。
戦争中であっても、日常生活を送るだけで精一杯。嘆いてばっかりでいられないは当然ですから。

昭和初期の、「その時」しかない広島の、ただただ「普通」の人々の日常を描いていく……これこそが、この作品のもっとも大好きなところでした。

ていうか、ふっつーすぎる日々を過ごしているキャラクターたちが愛おしくてしょうがないんだよ!
みんな見た目も性格もかわいらしいので、心の底から幸せになってほしいと願いたくなります。

原作者のこうの史代さんのファンであると、もうあのキャラたちが動いているというだけで泣きそうになるんだもん……。
以下の、バイオリンを弾くように料理をするシーンとか最高でしょ!

だけど、その時代は太平洋戦争の真っ只中というわけで……徐々に「戦争」の姿が顔を見せ、「あの日」へのカウントダウンも進んでいきます。
この戦時中の空気を、原作そのままの雰囲気のアニメーションで観られるということは……いままでにない、唯一無二の体験になるはずです。

『マイマイ新子と千年の魔法』で監督の作家性がよりわかる!

本作『この世界の片隅に』が気に入った方は、同じく片渕須直監督作品の『マイマイ新子と千年の魔法』も観てみることをおすすめします。

なぜかというと……原作者が違うのにもかかわらず、本作と『マイマイ新子』は以下の共通点を持っているからなのです。

  1. 方言へのこだわりがすごい
  2. その時代の風習や光景を丹念に描く
  3. 平和に見える日常の中に、シビアな現実が顔を出す
  4. たんぽぽのほか、「野草」などの自然がたっぷり出てくる
  5. 天真爛漫な少女が主人公になっている
  6. やや寡黙ながらも深いことを考えている男子がいる
  7. 不自由な生活をしている「過去の人」がいる
  8. 「想像の世界」が重要になっている

監督の作家性表れすぎだろ!
『マイマイ新子』は原作から大胆なアレンジが施されていましたが、『この世界の片隅に』は原作にかなり忠実でこれですから……「この監督でなければいけなかった」と思うくらいにマッチしています。

じぇんじぇんレンタル店に置いていない片渕須直監督作品『アリーテ姫』は未見なのですが、おそらくこちらも似た作品なんだろうな……。

原作からエピソードがカットされている、だけど……

映画『この世界の片隅』が原作から最も異なっていることは、あるエピソードがごっそりと無くなっていることです。

1度目に観たときはこの省略はただただ残念に感じてしまったのですが……2度目を観て、さらに原作を再読して、印象がガラリと変わりました。
これは、とても意義のあるカットであると。

何がすごいって、このエピソードをカットすること自体が、『この世界の片隅に』の物語が持っているメッセージをより深く掘り下げていることです。
詳しくはネタバレになるので↓に書きますが、原作を再読してそのことに気づいたとき、身震いをするほどの感動を覚えました。

テンポの早さとモノローグの多さにより、「情報過多」な印象も?

どうしても、この映画で気になったたことがあります。
それは、テンポが早すぎることと、主人公のすずのモノローグ(口には出さないけど、思っていること)が多めなことです。
原作では口に出していたことや、1つのエピソードとして描かれたこともモノローグに変換しているところもありました。

その結果、言葉による説明が「情報過多」という印象を強めています。
しかも、聞きなれない固有名詞や、広島の方言も重なってくるため、「あれどういう意味?」と思っていると、さらにどんどん「置いていかれて」しまうのです。

原作は1コマ1コマの情報量もものすごいため、同じページ数のマンガに比べると、圧倒的に読むのに時間がかかります。
マンガ作品であれば、自分のペースで文字をじっくり読めばいいのですが、映画の時間は一定なので「ついていく」必要性が出てきます。

登場人物の心の動きは、映画でもとても繊細に描かれています。
しかし、この映画ではモノローグで過剰に「装飾」してしまっている印象がありました。
わかりやすさを優先した結果なのかもしれませんが、自分は反対に、言葉での情報量が多すぎるために、頭の中での処理が難しくなっていると感じました。
(その一方で、さらっと流してしまいすぎて、ものすごく「読みとる力」を要求されるシーンもありました)

同じくマンガを原作としたアニメ映画『聲の形』は、モノローグが原作よりも大幅に減り、そのぶん「映画ならではの技法」で登場人物の心情を描いていました。
本作も同じように、映画という媒体ならではの、モノローグを最小限にとどめる工夫がほしかったのです。

そんなわけで、映画『この世界の片隅』はテンポが早く、情報量が多すぎるため、一度観ただけではわかりにくいところもある、という欠点があることは、否定できません。
ぜひ、わかりにくかったところの補完のため、原作も読んでみることもおすすめします。

「その日」がやって来る

原作は1話ごとに、起承転結のある作りになっていました(例外もあり)。
つまりは一定の間隔で「オチ」があるのです。

長編映画では展開のダイナミズムが求められるところもあるので、この原作とは少し食い合わせがよくないかな……と危惧していたのですが、その不安は少し当たっていました。
「暗転」の演出が多様されていることもあり、やや単調さを感じてしまったことも事実です。

しかし、これは一概には欠点とは言えません。
その単調さの中にも、いくつもの伏線や、「その日」へのカウントダウンが進んでいることの不穏さ、少しだけキャラクターのいいところだけでなくエゴも見えてくる……と、「はっきりとは見えない怖さ」があったりするのです。
単調すぎないようにするため、時折「はっ」と気付かせる演出も使われています。

また、あらゆる出来事を「あっさり」と描くことが、原作の魅力とも言えるんですよね。
この魅力は、映画においてもまったく損なわれていません。

そんなわけで、『君の名は。』のような、過剰にも思える演出や力強い言葉で攻める作品とは、かなりテイストが異なっています。
どちらがいい、悪いというわけではありませんが、『この世界の片隅に』は演出上、ストレートに観客の感情を盛り上げてはくれない、ということは事実です。
それでも、『この世界の片隅に』はキャラクターの内面を読むと、より奥深さがわかるようになっているということは、覚えていてほしいです。

アニメならではの演出や、のんの演技が最高だった!

苦言を呈しましたが、それでも10点満点中9点なのは、上に挙げた『マイマイ新子と千年の魔法』との共通点や、意義のあるエピソードのカットのほか、以下の要素が素ん晴らしすぎるからです。

  1. アニメーションならではの演出
  2. キャラクターみんなが超かわいい(特にすずの「ありゃあ」な顔)
  3. 日常シーンと、爆撃シーンの激しさとのギャップがすさまじい(より戦争の恐ろしさが伝わる)
  4. ハマりすぎな声優陣
  5. コトリンゴによる音楽
  6. ラストの画
  7. エンドロールの構成

特に1.は素晴らしかった……。
何せ、原作の「マンガならではの演出」が、「アニメでしかできない演出」へと変わっていたからです。
これは、絶対に実写映画ではできないでしょう。

のん(前:能年玲奈)のハマりっぷりは、誰しもが思うところ。彼女の普段からのほわほわした雰囲気と天然っぷりが、この「いつもぼーっとしてるけえ」と言っている主人公とマッチしすぎなんですよね。
そのほか、 細谷佳正、小野大輔、潘めぐみといった人気声優も抜群の存在感を見せています。

ラストとエンドロールは、1度目の鑑賞では気づかなかった新たな感動がありました。
こうした点でも、本作はもう1回鑑賞する価値がある……いや、2回目を観ることで、さらに感動が大きくなると断言します。

わかりにくい方言や用語

せっかくなので、字幕がないために、ちょっとわかりにくい用語を以下にまとめてみますね。青い文字をクリックするとwikipedeiaのページに飛びます。

  • モガ……モダン・ガール。流行に乗った若い女性のこと。モダン・ボーイと合わせて「モボ・モガ」とも呼ぶ。
  • 隣保館(りんぽかん)……地域の人に適切な援助を行う福祉施設
  • 工廠(こうしょう)……軍隊直属の軍需工場
  • 江波(えば)……広島市中区に位置する地区
  • 冴えん……劇中では名詞のようなイントネーションだけど、「冴えない」の意。
  • 挺身隊……女子挺身隊。女子の労働組織で、主に未婚女性で構成されていた。
  • かなとこ雲……成長した積乱雲で、頂上部分が広がって平らになっている。
  • JOFK……NHK広島放送局の識別信号。
  • 英霊(えいれい)……戦死者の霊を敬う言葉
  • スフ……レーヨンのこと

学べる映画でもあった

これはオススメ……どころではありません。
世界中の人に、絶対に観て欲しいです。

すずのいた戦前の日常は、決して過去だけのものとは限りません。
今の、先行き不安な世の中において、彼女たちの生活からは、きっと学ぶことが多いはずですから。
この世界の片隅に生きるすべての人が、元気をもらえる作品なのですから。

まずは予備知識なく、観てください。
そして、原作を読んでから、もう一度劇場へ足を運ぶことをおすすめします。

ラジオレビューもぜひ!

『火垂るの墓』との違いや、この作品全体を包んでいる意義、さらなる細かい描写について、しのさんと語ったラジオレビューを公開しました!

↓こちらのしのさんの感想も合わせてお読みください!
映画『この世界の片隅に』感想 〜誰かが誰かの居場所になること【ネタバレ】 | しのの雑文部屋
映画『この世界の片隅に』から学ぶ「我々はなぜ生きるのか」 | しのの雑文部屋

笑えるシーンが多いけど……

映画を見返してみると、「笑えるシーンが多いけど、実はかなりキツいことも描かれているのでは?」と思ってこちらの記事も書きました。途中からネタバレがあるのでご注意を↓
『この世界の片隅に』笑えるからこそ気づきにくい盲点 [映画] All About

以下は結末を含めてネタバレです。原作との違いにも少し触れているので、未読の方はご注意を↓

リンのエピソードの省略のために……(野暮な不満点)

回想として描かれたリンのセリフ「この世界にそうそう居場所は無くなりゃあせんよ」は、劇中では「初耳」でした。
原作では、このセリフは、すずとリンが再会した時のものだったんですよね。
リンのエピソードのカットのために、「あれ?こんなこと言っていたっけ?」と思ってしまう不自然さが残ってしまったのは、少し残念でした。

また、原作の「桜の木の上にすずとリンがいる」画を、映像でも観たかったのです……。
新装版の原作の下巻の表紙になるくらい、美しいシーンだったので。

なお、このシーンは以下の海外版の予告編で一瞬だけ映っています。

つまり、この桜のシーンはせっかく作られていたのにも関わらず、完成版ではカットされていたのでしょう。
いつの日か、このシーンを含めた「ディレクターズ・カット版」が観られることを期待しています。

妊娠→勘違い

すずの妊娠が勘違いだったということは、原作では明確に語られていたのですが……。
映画ではすずが病院から出てくるシーンが、遠い画で2~3秒映るだけなのでちょっとわかりにくいですね。
(ここでは珍しく、言葉による説明も、モノローグもありません)

映画でも、朝に2人分(赤ちゃんを含めた)のご飯が、夜にまた質素な1人分になったことで十分わかるようになっています。
妊娠の間違いをさらっとギャグとして流すというこのシーンは原作にもあるのですが、映画ではさらにそのおかしさが際立っていました。

たんぽぽ

初めに『この世界の片隅に』タイトルが映し出されたとき、そこには「白いたんぽぽ」「黄色いたんぽぽ」「綿毛になったたんぽぽ」が映し出されていました。(※以下の画像は予告編からのキャプチャー)

飛んでいるたんぽぽの綿毛は、これからどこかで種が落ちて、またきれいにたんぽぽが咲く、という未来を表しているようでした。
違う種類のたんぽぽがあることは、違った人たちがこの世界(の片隅)に生きている、という「多様性」を示しているかのようでした。

このタイトル+たんぽぽのシーンの前後で、青い空が広がっているというだけでも、もう涙が出そうでした。
これから、その空に戦闘機がやってきて、爆撃されること、原子爆弾が落とされることが「わかっている」のですから……。

奥に向かう画

本作の画のほとんどは日常生活を切り取った「絵」のようなものであり、「空間の広がり」を感じさせるものではありません。

しかし、2度だけ「奥に向かう」というシーンがありました。

  1. 晴美を失ったすずが、時限爆弾から逃げるように走るシーン
  2. すずがサギを追いやり、呉の光景が思い浮かぶシーン

この「奥に向かう」画は、すずの願望を表していると言っていいでしょう。

いままで立体的でなかった画が、奥行きのある画に変わることにより、すずの切実な気持ちを表現できているんですね。

晴美を失ったすずが、真っ黒の画の中で、「線香花火」のような光景を見るのも映画オリジナルです。
こうしたアニメでしかできない表現には、唸らされました。

そうそう、最後にすずが広島に戻った時、何羽かのサギがそこを飛んでいました。
このサギが、すずが追いやったサギだったら(原爆に巻き込まれることはなかったら)いいな……。

また、すずがなくなった右手を見つめているとき、徐々に拝見が「水彩画」のようにボヤけていくこともすごかった……。
彼女の「歪(いが)んでいく」気持ちそのままのようで……。

リンに再会しなかった理由

リンは、こうすずに話していました。

「こんなとこ、さいさい来るもんじゃないさ」

これは、リンがいた場所が、男に体を売る「遊郭」という場所であったから……というのが大きな理由でしょう。

そして……原作ではすずはリンと別の場所で度々再会していましたが、映画では一度も2人は再会することはありませんでした

じつは原作では、リンと、すずの夫の周作とが、過去に関係を持っていたことが描かれています
それを知ったすずは、こう思っていました。

「そりゃあもともと(周作は)知らん人じゃし、4つも上やし、いろいろあってもおかしうない。ほいでもなんで、知らんでええことかどうかは、知ってしまうまで判らんのかね」

原作のすずは、リンと再会したことで、リンの「さいさい来るもんじゃない」という言葉を裏付けるかのように、「知らなくてもいいこと」を知ってしまいました。

この後に幼馴染の水原といっしょに布団で話したとき、すずははっきりと「あん人に腹が立って仕方ない」と言っており、(リンと関係を持ったことを知ったため)周作に愛憎の両方の感情を抱いていることがわかります。

これは映画でもあったセリフですが、リンと周作の関係を知っているか否かで、意味合いが違ってきます。
映画では、すずは一切のわだかまりを持つことなく、周作のことを好きでいられ続けました
映画のすずは、リンと再会しなかったために、「(周作とリンが関係を持っていたという)知らなくてもいいことを知らない」という、選択肢を取ることができたのです。

なお、映画でも、周作とリンに関係があったことは、「切り取られたノート」という形で登場しています。
この切り取られたノートの意味は、ぜひ原作を読んで確認してみてください。

最良の選択

「今のうちが、ほんまのうちなら、ええ思うんです」と言うすずに、周作はこう話していていました。

「過ぎた事、選ばんかった道、みな、覚めた夢とかわりやせんな。
すずさん、あんたを選んだんは、わしにとって多分最良の選択じゃ」

この言葉は、前述の「すずとリンが再会しなかった(すずがリンと周作の関係を知らないままでいられた)」という、映画での選択肢にも重なります。
選ばなかった道について後悔するのではなく、今の現実が最良だと思うことも、大切ではないかと……。

記憶と秘密

原作でリンは、すずにこのように話していました。

「人が死んだら記憶も消えて無うなる
秘密は無かったことになる。
それはそれでゼイタクなことかも知れんよ」

そして、原作で(おそらく)リンの死を悟ったすずは、このリンの言葉にこう返していました。

「ごめんなさい、リンさんの事、秘密じゃなくしてしもうた。
これはこれでゼイタクな気がするよ・・・」

つまり、原作のすずは、過去にリンと周作が関係を持っていたという「秘密」も含め、リンの「記憶」を持ったままでいる、ようにしたんですね。

しかし映画のすずは、そのリンの秘密を知らないままでした。
つまり、映画のすずは、「秘密は無かったことになる」という、リンが思っていた「ゼイタク」を手に入れていたのです

しかも、映画のすずは、リンに一度しか出会わなかったにも関わらず、「リンさんを2、3回見かけた気がする」と思っていました。
リンの言う「人が死んだら記憶も消えて無うなる」なんてことは、なかったんですね。

知らなくてもいい秘密は知らないままだけど、大好きな人(リン)の記憶は残る。
映画では、そのように、すずにとって「最良の選択」ができていたのです。

なお、これらのリンのエピソードのカットについては、発売中の「ユリイカ」にて、片渕須直監督の言葉として明確に書かれているそうです。

↓こちらのブログ記事にもその内容が記されているので、ぜひ読んでください。
ユリイカ「この世界の片隅に」 感想 【片渕監督の込めた「すず」という少女への愛】 : ナガの映画の果てまで

また、エンドロールの、クラウドファンディングに参加してくれた人々のクレジットの下に映し出されたのは、原作でも描かれていた「リンという少女の一生」でした。
ここで、映画を応援してくれた人たちに、「リンの記憶」を思い出させてくれることにも、片渕須直監督のやさしさを感じました。

抱き合う2人

映画において、リンと再会しなかったことでの救いが、もう1つあります。
サギを追いやった後、すずは「広島に帰る!」と言って聞きませんでした。
そんなすずを見て、周作は「勝手にせい」と言い放ちながらも、空襲から守るために、すずをぎゅっと抱き寄せます。
すずは、その周作の体に、すっと手を回しました。

原作では、この時に周作は「リンの消息」について口にしており、2人はやはりわだかまりを抱えたままだったんです。

そして、映画での「すずが周作の体に手を回す」シーンは原作にはないのです。
ただただ、愛しあう2人の、双方がお互いを大切に思う気持ち……それを拾い上げてくれたことに感動しました。

抵抗

すずは「いつもうちはぼーっとしとるけえ」と言っている、おっとりした女の子でした。
だけど、家が焼夷弾で燃えそうになったときは声を荒げながらもその火を消そうとし、日本が戦争に負けたと知ったときには原っぱにつっぷして号泣しました。

すずは「ぼーっとしたまま死にたかった」と言っています。
おっとりしているように見えたのも、彼女が人として間違った気持ちを持たない「無垢」な存在でいたかったからなのかも……。
ぼーっとしているようなすずの性格は、残酷な戦争が起こる世界での、必死の「抵抗」であるかのように思えたのです。

想像の絵

すずは「この世界の片隅に、うちを見つけてくれてありがとう」と周作に言っています。

この前にすずは「みんなが誰かを亡くして、みんなが誰かを探している」ということを実感していました。
その世界の中で周作と出会えるという奇跡に、すずは今一度、感謝を告げたのでしょう。

思えば、子どものころのすずは、「人さらいに会う」という「想像」をしていましたが、「現実」ではこの時に周作と初めて出会っていたんですよね。

ここで、「想像上のものが現実に及んでくる」ということを示しておくことも重要でした。

なぜなら、空には、まるで絵のような星々が広がっていたのですから。
それは、すずが無くした「右手」が描いたような、素朴で、美しい光景で……

この前にすずは、自分の「鬼(おに)いちゃんが死んだらええと思っていた」という気持ちについて、「左手で描いた絵のように歪(いが)んどる」と考えていました。

だけど、ここでは、無くした右手がすずの頭をそっと撫でて、その右手が描いたような「想像」の絵が広がる……。
想像が現実になったような、忘れられない光景でした。

反対の手

すずは、右手で手を繋いでいた晴美が時限爆弾で死んでしまったことに、「もし晴美さんと繋いだ手が反対だったら……」と後悔していました。
「今のうちが、ほんまのうちなら、ええ思うんです」と「今のこの選択」を肯定したいと思っていたすずにとって、なんと残酷なことでしょうか。

でも、周作は悩んでいるすずに「過ぎた事、選ばんかった道、みな、覚めた夢とかわりやせんな」と言ってくれました。

そして、最後に孤児として北條家に迎えいれられた女の子は、その母親が右にいたためにガラスに刺さらずに、生き延びることができていました。
女の子は、すずの場合と逆の手で繋がっていたことで、助かっていたのです。

すずは「なんも知らんうちに死にたかった」と言っていました。
それは、晴美を殺してしまったという罪の意識もあったからなのでしょう。
(すずは、死んだ晴美がお花畑にいるところを想像し、「あの向こうこそ、うちの居場所だったんじゃろうか」と言っていました)

最後に表れた女の子は、そんなふうに罪を背負い続けたすずに、救いをもたらす存在だったのです。

明かりのついた家々と、光り輝く星々

ラストでは、家々に明りがつきながらも、すずの無くした右手で描いたような星々もまた輝いていました。
こんなにも地上が明るいのに、星々が輝いている、というのも、現実ではありない光景です。

だけど、中盤で周作の母が「みんなで笑って暮らせたらええ」と思ったように、みんなには笑顔が戻っている。
それは、まるで覚めない夢のような、最良の選択の結果のようで……

そのことを、想像の「明かりのついた家々と、光り輝く星々」で映している。
この後のみんなの幸せが想像出来る、素晴らしい幕切れでした。

(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

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  1. シオン=ソルト より:

    > 世界中の人に、絶対に観て欲しい

    自分はこれには疑問があります。

    というよりも、本作を観ていてずっと違和感があったのでした。
    本作が悪いという意味では無く、とにかく「何か違う」感が続いていました。

    空襲のシーンになり、その違和感の理由が見えたのですが、結局のところ、日本は“太平洋戦争”から抜け出していないのです。日本で戦争と言えば太平洋戦争であり、戦争映画と言えば太平洋戦争を描いたもの。無論、これは日本が経験した戦争という意味では当たり前なのですが、しかし(これを言うと批判的な声も上がるでしょうが)それは70年も前の話。当時の戦争を知る世代は最早少なく、現代の戦争を知る日本人もまた殆どいない。
    私が日頃、紛争時事に触れていたことがら、本作を観て「これじゃない」感を受けたのだと思いました。

    一区画が一発で煙になるような爆弾が当たり前のように使われる現代の戦争の図を日常茶飯事的に見ていると、日本人の意識が世界から取り残されている、そんな気がしたのです。本作が「救いのある戦争映画」であることが尚更、今の日本人らしい作品だと感じさせた。それは本作に対する否定ではなく、日本と言う群像それ自体に対する興ざめのようなものでした。

    海外の人が本作を観たとき、どのような反応を示すのか。
    私もそうした観点から、気になっています。

    • ナガセ より:

      とても勉強されていて、見識ある方だと思うのですが、あえて言わせていただきます。

      太平洋戦争から抜け出せていないと言う文書がありましたが、これは第二次世界大戦参戦国ならどこの国でも同じでしょう。世界中で第二次世界大戦を舞台とした作品は毎年のように出ています。
      国家的な立場についておっしゃっているにしても、アメリカだって、ドイツだって、ロシアだって、どこの国だって第二次世界大戦の結果を踏まえた立ち位置を今なお取っているじゃありませんか。
      結局、現代史は第二次大戦を踏まえなければ語ることはできないのです。
      映像作品として現代戦のものを撮れと言うのであれば、戦争をしていないのにどうしろととしか言いようがありません。

      またこの映画は戦時下を舞台にしていますが、戦争映画ではありません。
      この映画はセカイに自身の生活を奪われ、それを受け止め、前を向き、再生していく話なのです。
      故に普遍的で、舞台を3.11にも9.11にも置き換えることができるものなのです。

      だから私はこの映画は世界中の人に見て欲しい

      そう思います。
      長々と駄文を失礼しました。

  2. yamsan より:

    日常的に死が隣り合わせの現実が、今現在も存在している。
    そういったことに若い人だけではなく、日本人が注目することはTVを除けばないでしょう。
    それが、現実としてあったことを、アニメーション映画で追体験することで、戦争の悲惨さ、日常との縁続きの、いや日常そのものであることを知ることができます。

    逆に言えば、戦争が悲惨なのは、負けたから。自国民に数多くの被害が出たからに過ぎません。第二次大戦前の日本において、戦争とは直接戦闘する機会のある人を除けば、どちらかというと儲かるものでしかなかったのだと思います。

    それが、誰もが被害者となりうる世界だということがわかったのが、今であり、現代です。非日常と日常は陸続きであり、境目なんて幻想なのです。

    歴史的な経過は、時に何かを見失わせるでしょう。でも、だからこそ、時の経過でその本質がわかる場合もあるのだと思います。規模ではなく、現実と陸続きであるということにおいて。

  3. マクフライ より:

    見てきました。自分は今年のベストワン候補になりました。自分の感想をネタバレ込みで書きます。相変わらず下手くそな文章ですがご容赦ください

    原作は未読の状態で見ました。確かにこのシーンはどういうことなんだろうとか、これはどういう意味なんだろうと思うようなシーンもあったのですが、自分はそこまで気にならなかったですね。とはいえいずれ原作も読んでみたいと思っています。

    モノローグのシーンは自分は良かったんじゃないかと思います。自分も最近の邦画や日本のアニメでよくある登場人物が自分の感情をベラベラと喋るだけのシーンはあまり好きではないのですが(某ラノベ原作アニメは酷かった・・・)、この映画に関しては例えばすずさんのナレーションと同時にすずさんが描いた絵が動いてるシーンはなかなか面白いと思いました。

    とにかくすずさんが最高に良かったですね、いわゆるドジっ娘みたいなキャラクターですが、がんばり屋の性格なので最後まで応援したくなるキャラクターでした。能年玲奈の演技は正直最初は不安でしたが、見終わった頃にはすずさんの声はこの人以外あり得ないと思うようになりました。

    あと、これは個人的な話になるのですが、自分には2歳になる姪がいるのですが、不発弾の爆発で晴美ちゃんが死ぬシーンはどうしてもその姪と重なってしまって、見ていて死ぬほど辛く、泣いてしまいました。でもだからこそ最後にすずさんが戦災孤児の女の子を拾って養子にするシーンは希望を感じ、違う涙を流しました。

    自分もこの映画は世界中の人たちに見てほしいです。なぜなら、これは戦争うんぬん以前にいつも通りの日常を生き抜こうとした人たちのドラマとしても素晴らしいと思ったからです。

  4. ダーク・ディグラー より:

    何かロバート・アルトマン監督の『M☆A☆S☆H』みたいな感覚覚えました。

    コミカルでシニカルで残酷なシーンは残酷に描くみたいな…

    印象的なのは日本が戦争に負けてすずが泣くシーンですね。

    当時誰しもが「日本は勝ちます」と煽って国からも世間様も疑うなと言う時代に国の都合で創造の自由の右手や姪の晴美を失ったんですから誰しもが納得できない部分を陰で泣くことを象徴させてますね。

    すずの妹も原爆の後遺症で命の灯の無さを右手で象徴させてますね。

    原爆孤児拾い家族にしてそれでも生きていくんだよ!と希望の持てるラストはいいですね。

  5. ひぃ より:

    すずさんが生きていた頃の時代、同じ地に父方の曾祖母がいて
    今はもう天国へ行ってしまったのですが、私が幼い頃山の方を指差して
    「あの時ねぇ、もの凄い音と一緒にピカッと写真を焚いたように光って、わたしは洗濯物を干してたから、山のほうにものすごい煙が上がるのが見えたんよ」と言っていたのを思い出しました。
    すずさん、という存在、北条家の人々がまるで血肉を持ったように身近に感じられ、親類のように親しい気持ちで映画を見る事ができました。

    地元民が見たら「あっ、この建物知らないけど、この土地の形はまさか!」と思う程ディティールが徹底されているのでまたぜひ二回目を見に行って再確認して灌漑に耽りたいです。

  6. […] ですよ!)↓ 映画『この世界の片隅に』描かなかったことの大切さ(ネタバレなし感想+ネタバレレビュー) […]

  7. 5時半の男 より:

    通りすがりに失礼します。映画観ました。
    一言では言い尽くせない、いい映画ですね。
    映画を観た後の第一印象が、『ノーカントリー』と似ているなと思ったのです。
    観客の日常の地続きの世界として、広島県の呉市や江波、広島市があり、今はなくなった世界であった物語だからかもしれません。
    物語の世界は既視感を覚えるほどに真に迫っていながら、映画それ自体は虚構(アニメだから当然)です。
    結婚から始まる夫婦生活。何年も何年も重ねる人生の出来事が薄まることなく、ほんの数時間に凝縮されて、生き延びる者と死者の間には全く差異がなくて、たまたまの偶然で生死が決まるという現実が、どんな最良の選択をしていても、生死の境においてなんの価値もないという現実まであって。
    だからこそ、太平洋戦争のみならず、死者、取り分け犠牲者を弔うのに最良の語り口になっていると思います。死者を自分の主張の中に召喚することなく、キャラクターを本当にあったかもしれない物語の中で生かして死なしめる。
    そうした物語によって引き起こされた責任感のような感覚は、『ノーカントリー』のラストシーンで保安官が語る物語を聞かされた時のように響きました。
    『この世界の片隅に』は、きっと誰が語っても同じように語れません。犠牲者達が残した無限の残響の中に、何か意味を見つけようとさせる、そんな映画だからです。

  8. さいご泣きそうになりました より:

    戦争の現場は本当に残酷で無慈悲で悲惨
    これは日本人が身にしみて味わった教訓なのだから、耳に痛くても忘れてはいけないですね
    第2次世界大戦に勝った側の米中露は、いまだに戦争で儲けて、他国を攻撃しているわけで
    中国も悲惨な目にあったのに、残虐な日本兵を自力で倒したと歴史捏造した結果が、現在の姿
    それが隣国なのだから、軍事力、軍事同盟で戦争にならない優位を保つことは必要悪なのに、戦争法案絶対反対を叫ぶ自称平和主義者の、お花畑脳はどうしようもない

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ヒナタカ

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