時代は1960年代。花札やトランプといったカードゲーム産業の限界に突き当たった任天堂が「一寸先は闇」の娯楽産業にいかに取り組み、熾烈なサバイバルの中で生き延びたのか。今回は「ファミコン十字キー生みの親」のあの人が登場です。
他社のヒット作にキャラを載せた初期の任天堂玩具
1964年前後を境にして事業の中核だったトランプが全く売れなくなり、苦境を迎えた任天堂。しかし社長だった山内溥氏も、ただ静観していたわけではありません。その1年前、1963年には室内玩具の本格販売をスタート。「製造」だけであれば、1960年にディズニー野球盤を手がけています(販売は玩具問屋の河田)。カードゲームの「紙」や「印刷」の延長にあるボードゲームも、早い時期から扱っていました。
これらの玩具には、あまり「任天堂らしさ」がありません。ボードゲームは昔ながらのすごろくの変形、野球盤もエポック社などの大ヒット商品の後追いでした。わずかな差別化は、ディズニーや『オバケのQ太郎』などキャラクターを加味していること。当時の任天堂玩具の多くは「他社のヒット商品に版権キャラを載せただけ」に占められていたのです。
企画の貧困よりも深刻だったのが、技術の貧困です。日本の大手玩具メーカーは概ね第二次世界大戦前にルーツがあり、数十年もの製造ノウハウの蓄積がありました。後発だったバンダイでさえ50年代にリズムボーム(ゴムまり)や金属玩具のB26ナイトプレインが大ヒット。タカラはビニール加工によりダッコちゃん、トミーは合成樹脂のプラレールと、基幹技術がありました。60年代に入って輸入玩具を扱い、自社生産に置き換え始めたばかりの任天堂には「技術」が欠落していたわけです。
それでも、1964年には「ラビットコースター」がちょっとしたヒットを記録。江戸時代からある「俵ころがし」をアレンジしたもので、ネジを使った最古の任天堂製品。他社と被っていない(元ネタがクラシックすぎるゆえの)独自性が強みとなったのでしょう。
任天堂のクリエイティブを象徴した横井軍平氏が入社したのは、そうした「カードから玩具」へと足掻いていた最中でした。「いきなり天才が現れ、傾いた会社をさっそうと救う」というストーリーを作りがちですが、一方では「才能を受け入れるための会社の変革努力」を視野に入れなければ、任天堂という会社の全貌は見えてこないでしょう。
横井軍平氏の採用は「謎」ではなく必然
畳二枚分に及ぶ鉄道模型が雑誌に載った高校時代、カーステレオを自作して友達を驚かせた大学時代。そんな「ものづくり」に情熱を燃やした横井青年は、同志社大学工学部電気学科を卒業後、大手家電メーカーの就職試験にことごとく落ちてしまいました。そんな「落ちこぼれ」を拾い上げたのが任天堂でした。たいていの書籍では「任天堂もなぜ電子工学科の大学生を採用したのか」が謎としています。主力製品が花札やトランプ、「職人が花札を手作業で張り合わせて作っているような地方の町工場の臭いが漂っていた」という認識ではそうなるでしょう。
が、なんの不思議もありません。当時の任天堂に足りなかったのは「技術」であり、先行していた競合他社との間には圧倒的な格差がありました。1960年代は、そうした技術格差がリセットされる周期がめぐってきた時期です。素材は金属からプラスティックに、動力もフリクション(内蔵されたフライホイールの慣性を利用)から電動玩具へと転換期を迎えていたのです。
技術で遅れを取っていた任天堂は、すでに競合が激しかった従来型玩具から、相対的に格差の小さかった電動玩具にシフトせざるを得なかった。その動きは自覚的であり、戦略的でした。横井氏は理工系学出身「第一号」であり、その後も理工系の採用は続けられたのですから。
山内博氏も、いつものように「運に天を任せる」的な賭けの面はあったかもしれませんが、電化されたおもちゃ、つまりエレクトロニクスは視野に入れていたはず。長い目で見れば、ファミコンに至る道はすでに始まっていたのです。
ウルトラハンドの大ヒット
横井氏の最初の仕事は花札製造ラインの保守点検。退屈な日々が続いたある日、社長室に呼び出され......。1個800円で120万個も売れたヒット商品、「ウルトラハンド」(1966年)誕生の逸話は、本によって細かいディティールが異なります。「暇つぶしで作っていた伸び縮みする玩具を作っていたら社長に見つかって」
という説が一つ。そして新設の"ゲーム部"で始まるプロジェクトの担当を命じられ
「何かどえらいもんを作ってみなはれ」
と言われた横井氏が、ちょうど作っていた新発明を見せたという説もあり。どちらにしろ「仕事をサボって作ってた」点は変わりありませんが、戦略的に採用した人材だけに、最初から商品開発が期待されていたのでしょう。
ウルトラハンドは遠くのものがつかめる、いわゆるマジックハンドです。ジャバラ状に組んだ骨組みの先に吸盤が取り付けてあり、ハンドルを引くとアームが伸びる。独自性は「掴んだものを離さない」という点にあります。クラッチ構造によってハンドルを縮めてもモノを離さず、紐を引くことで先端部が開いて取れるという仕組み。
そうした実用性をベースとしつつ、山内博氏は「任天堂はゲームメーカーなのだから、ゲームにしろ」と命じたとのこと。そこで横井氏はボールと台を同梱して「台の上にあるボールを取る」という要素を加えてゲーム化したわけです。
横井氏本人も「あんなんゲームにならないですよ」と後に述べていましたが、子供達にとっては遊び方の「説明」になった。山内氏の念頭には、ディズニートランプにプレイングガイドを付けた前例があったのでしょう。
そして「任天堂はゲームメーカーだから」という自覚も見逃せません。それは花札やトランプといった「遊戯」への原点回帰でもあり、単純な「ハードウェア」の品質では大手メーカーに敵わなかった新興メーカーなりの「ソフトウェア」による差別化でもあります。任天堂のゲーム路線は、弱者のサバイバル戦略でもあったのです。
横井氏のための開発課
ウルトラハンドの大ヒットを受けて、任天堂には開発課が新設されました。所属は横井氏と今西絋史氏(現任天堂顧問)の二人。今西氏は経理を担当するために付けられた形で、実際は横井氏のためだけに設けられた部署です。組織図においては製造部の下でしたが、実際には当時の社長・山内溥氏の直属でした。発足してしばらくは、横井氏が新製品を発明して社長にデモンストレーションし、社長が直感的な感想を述べてこれを反映。そのキャッチボールで改良を重ね、気に入れば今西氏に生産せよという社長命令が下ったとのことです。
そうして生まれたウルトラシリーズの第二弾が「ウルトラマシン」(1968年)。乾電池で駆動するミニサイズのピッチングマシンですが、投球の間隔や変化球も投げられ、基本的な機能は一通り備えています。さらに付属のバットはロッドアンテナのように伸び縮みして持ち運びしやすく、ピンポン玉を打つため室内でも安心して遊べました。
商品の優秀さもさることながら、巨人のナイター中継時にCMを流し、パッケージに長嶋茂雄や王貞治といった人気選手を起用した効果も大きく、販売年には80万台、翌年には100万台ものスマッシュヒット。任天堂は現在に至るまで「メディア」×「キャラクター」のポテンシャルを追求し続けてると言えます。
「電子玩具」への転換点となったラブテスター
ウルトラハンド、ウルトラマシン、そして潜望鏡をイメージした「ウルトラスコープ」の3つとも横井氏の発明によるもの。売上額で言うと存在感が大きな(スコープ除く)ウルトラシリーズですが、後の任天堂の事業展開においては、もう一つの意外な発明品こそ影響が大きかったと思われます。それはラブテスター(1969年)です。本体から伸びている黒と赤のコードを男女カップルが握り、空いてる方の手を握り合うと「愛情度」が測られる。本体は検流計で、人体を流れる微弱な電流を感知して針が触れるという、要はジョークグッズです。もちろん男同士が握手しても問題なく測定できます。
横井氏いわく「公然と女の子を握るための道具」とのこと。普及していた(枯れた技術)検流計×手を握るというアイディア(水平思考)=横井氏の言う「枯れた技術の水平思考」の代表作とされています。
が、当時の任天堂にとっては「枯れた技術」どころかハイテク製品でもありました。なぜなら、同社の製品としては初めてトランジスタを採用した「電子玩具」(駆動部ではなく電子回路を持つ)だったからです。
ちなみに愛情プロデュース系の任天堂玩具としては、『新世紀エヴァンゲリオン』でシンジとアスカが絡みあったことでお馴染みのツイスターゲーム(1966/輸入販売)や二人で遊ぶフラフープ的な「ヒップフリップ」(1969)などもあります。ゴーサインを出した山内溥氏も、この方面に何か特別な思い入れがあったのかもしれません。
本題に戻ると、任天堂は大手の老舗メーカーがひしめく激戦地から、まだ開拓されてないエレクトロニクス玩具のブルーオーシャンにようやくたどり着いたのです。そしてまた一人、ファミコン誕生の鍵を握る人物が......以下、次回に続きます。
ゲームメーカー・任天堂が出来るまで〜花札からファミコンまで(第1回)
ゲームメーカー・任天堂が出来るまで〜花札からファミコンまで(第2回)