昨年11月にミャンマーで実施された総選挙は、アウンサン・スー・チー氏が率いる野党・国民民主連盟(NLD)が圧勝し、世界中の注目を集めた。だが、歴史的な政権交代の陰で、祖国に厳しい視線を送るミャンマー人たちがいる。仏教国のミャンマーでイスラム系の少数民族として迫害されてきたロヒンギャ族だ。その一部は、日本でも暮らしている。
群馬県南東部の館林市には、東南アジアの異国から逃れてきたロヒンギャ族の人々が約200人、生活している。53歳の男性、ジャファル・フセインさんはそのうちの一人だ。香辛料の香りがほのかに漂うアパートで暮らしながら、離れ離れになってしまった息子たちの安否を気にかけている。(取材・構成:水田昌男)
●国籍を持たない民族「ロヒンギャ」
ミャンマーの西端にあり、隣国バングラデシュと接しているラカイン州は、ロヒンギャ族の多くが暮らしていた土地だ。仏教徒が大半を占めるミャンマーの中で、イスラム教徒であるロヒンギャ族は異質の存在とされている。
ミャンマー政府は、彼らが「バングラデシュからの不法移民」であるとして、1960年代から厳しい迫害と弾圧を加えてきた。1982年の国籍法で国民の地位から除外され、ロヒンギャ族は「国籍を持たない民族」になった。2015年3月には、ミャンマー政府がロヒンギャ族の住民から身分証明書を没収。11月に行われた総選挙では、ロヒンギャ族の投票権を奪った。
その半年前の5月には、ロヒンギャ族と見られる難民を乗せた船が海上を漂流し、深刻な人権問題として世界の耳目を集めた。しかし、日本を含む国際社会は、いまだミャンマーのロヒンギャ問題の解決に向けた具体策を講じられずにいる。
●「逮捕を逃れるためにミャンマーを離れた」
現在、館林市で派遣社員をしながら一人暮らしをするジャファル・フセインさんは、ラカイン州の小さな農村で生まれ育った。5人の息子の父親である彼は、その村で農業を営んでいた。
彼が村のリーダーをつとめていた1990年代前半、ミャンマー政府は、多数派である仏教徒のラカイン州への入植をすすめていた。州の評議会は、村々のリーダーたちを呼び集めて、新しい入植者のために土地を明け渡すよう命じた。
ジャファル・フセインさんの村は、350エーカー(東京ドーム約109個分)の明け渡しを求められた。住民たちは「畑を奪われては生活ができない」と猛反発。ジャファル・フセインさんは、住民から土地収用に対する反対署名を集めて、州政府と中央政府に送った。
しかし、こうした行動は軍事政権の怒りをかって、ジャファル・フセインさんは投獄・拷問を受けることになる。いったん釈放されたが、その後、土地収用を拒否した村のリーダーたちが軍の治安部隊に逮捕されていることを知り、あらためて身の危険を感じて、ミャンマーを離れることを決意した。
●日本で「定住ビザ」を取得
「国外へ逃れようと思う」。家族を集めて、別れの言葉を伝えた。末っ子は当時1歳にも満たなかった。家族全員が泣いていた。母からは引き留められた。だが、もし捕まれば、15~20年は釈放されない可能性がある。そうなれば、結局、家族と離れることになる。決心は固かった。「私のことは心配するな」。今は亡き父に言われた最後の言葉だった。
ミャンマーを出て、最初にたどり着いたのはマレーシア。孤独な人生の始まりだった。ジャファル・フセインさんによると、マレーシアは、不法滞在者の取り締まりが厳しい。何度も当局に捕まり、ミャンマーへ送りかえされそうになった。安心して暮らすことのできない生活に限界を感じていたころ、亡命を斡旋するブローカーから「新天地」としてすすめられたのが、日本だった。
ジャファル・フセインさんは2006年に来日。難民申請し、知り合いのロヒンギャ族を頼って、群馬県で暮らし始めた。日本政府から「難民」としては認められなかったが、人道的配慮による定住ビザを与えられた。2008年にはバングラデシュで家族と再会した。息子たちは大きく成長していたが、煩雑な手続きの関係で、すぐに日本に連れてくることはできなかった。
●息子たちの消息が途絶えた
「今月の初めごろから、長男と次男との連絡が取れていないんだ」
2013年6月中旬、ジャファル・フセインさんは力なく自宅のベッドに座り込んでいた。手には携帯電話がしっかりと握り締められていた。息子たちを乗せた、オーストラリアへ向かう船が航海中に沈没したかもしれない――。細い声でそう話し始めた。
発端は、故郷のラカイン州で2012年に勃発した仏教徒とロヒンギャ族の民族衝突だ。長男が警察から不当に逮捕されるなど、ジャファル・フセインさんの家族の生活にも影響が出るようになった。身の危険を感じた長男サデックさんと次男アヌワルさんは、父親のすすめで、2013年にマレーシアへ逃がれた。国連難民高等弁務官事務所によると、民族衝突の影響で約14万人のロヒンギャ族が国内避難民になったという。
2人の息子はその後、マレーシア当局によるミャンマーへの強制送還を回避するため、インドネシアを経由してオーストラリアへ渡航することを決めたのだ。
「父さん、船に乗ったよ」。次男アヌワルさんから電話があった。オーストラリアに向かう難民船には100人近くが隙間なく乗っていたという。船はすでに沖合に出ており、「もうすぐ圏外になるから、父さん、これが最後の電話だよ。祈っててね」。アヌワルさんがそう言うと電話は切れた。
インドネシアを経由してオーストラリアへ向かうロヒンギャ難民は当時、大勢いたという。息子たちからは、オーストラリアに到着したころに連絡がくるはずだった。
ジャファル・フセインさんの携帯電話には、当時の着信履歴が今でも残っている。2013年6月2日午前11時33分。この「最後の電話」から3日後、難民船がオーストラリアのクリスマス島近海で沈没したと報じられた。
息子たちの乗った船が沈没したのではないか――。ニュースを聞いたジャファル・フセインさんの身体は凍りついた。次男が持つ携帯に何度も電話したが、応答はなかった。それから2年半以上が経った現在も、息子たちの消息は途絶えたままだ。
●「なんで、行かせてしまったんだろう」
ジャファル・フセインさんが知っていたのは、2人の息子がインドネシアから船に乗ったということだけ。クリスマス島には、オーストラリア政府の外国人収容施設があるため、息子たちはそこを目指していたかもしれないという。
また、途中でインドネシアの海上警察に拿捕されたり、航路を変えて人身売買の被害者となった可能性なども捨て切れていない。息子たちが行方不明となった同じ月、ジャファル・フセインさんは息子たちの情報を求めてインドネシアに渡ったが、結局、何の手がかりも見つからなかった。
「なんで、行かせてしまったんだろう」「父親らしいことを何一つしてやれなかった」。ミャンマーを逃れて以来、家族と離ればなれで生活してきたジャファル・フセインさんの顔には、悲しみの皺が刻まれている。息子たちが消息を絶って2年半以上が経つ現在、東南アジアで人身売買の被害者が発見されたと聞けば、息子たちがそこにいるのではないかと少し明るい表情を見せることがある。
昨年11月の総選挙では、民主化のシンボルであるアウンサン・スー・チー氏が率いる野党・国民民主連盟(NLD)が勝利をおさめた。今後、ミャンマーの民主化が加速するとの見方が優勢である。だが、NLD内部にもロヒンギャ族を国民として認めないとの声があり、ロヒンギャ族の先行きは不透明なままだ。ジャファル・フセインさんは、今年2016年で祖国を逃れて20年、来日して10年になる。家族と一緒に故郷で安心して暮らせることを望んでいるが、その見通しはいまだにたっていない。
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