人工知能の進歩は人間の働き方に変化をもたらすのか? ──人工知能プロジェクト「ロボットは東大に入れるか」(後編)
演繹的&帰納的推論の両輪で躍進した人工知能
近年の人工知能研究はどこまで進んでいるのか。東ロボプロジェクトの全体像を説明する前に、人工知能研究における「演繹的方法論」と「帰納的方法論」について解説しておこう。
一般的に「演繹」とは、普遍的な前提やルールから結論を得る考え方。「●●だから、△△」のように、論理的な道筋を立てて結論を導き出す。一方、「帰納」とは、個別の事例や経験則などを集めて、普遍的な規則・方法などを見出す推論方法だ。
演繹法は普遍的な前提から結論を導き、帰納法はさまざまな事例から普遍的な規則・法則を導き出す
(図:編集部作成)
日本における人工知能研究の盛り上がりは1980年代前半から90年代前半にかけて訪れた。その背景にあるのが1982年に通商産業省(現・経済産業省)が立ち上げた国家プロジェクト「第5世代コンピュータプロジェクト」だ。高速な推論マシンを基盤として、人工知能による言葉の理解や機械翻訳など野心的な目標を掲げた試みだった。しかしその頃の人工知能研究はいわば「演繹的な方法論」で、論理的な計算処理に依拠していた。
2000年代に入るとビッグデータ活用によって人工知能の帰納法的な推論はより容易になった。これまで演繹的な方法論では解決が難しかったことも膨大な事例・データが入手可能になったことで帰納的な方法論で解決できるようになり、人工知能のできることが飛躍的に向上しているのだ。
「1TBを与えて、10を知る」ビックデータ時代の人工知能とは
現在の人工知能研究について、国立情報学研究所(以下、NII)社会共有知研究センター長であり、東ロボプロジェクトのプロジェクトリーダーを務める新井紀子さんは次のように解説する。
「コンピューターは、人間のように『1を聞いて10を知る』ことはできませんが、『1TB(1GBの1,000倍)の情報量を与えれば10を知る』ことはできます。画像認識などの領域でもそうで、クラウドサービスで一般の人から多様なデータが集まるようになってきました。またCPUなどのハードウェアの性能が向上したことで、演繹的な方法論として数理的シミュレーションが速くできるようになりました。演繹的および帰納的方法論の両輪で人工知能研究は進歩しています」
NII社会共有知研究センター長/東ロボプロジェクト プロジェクトリーダー 新井紀子さん
こうした背景のなか、東ロボプロジェクトはどのような経緯でスタートしたのか。話は2010年にまでさかのぼる。この年、新井さんは『コンピュータが仕事を奪う』(日本経済新聞出版社)を執筆した。その内容は「ホワイトカラーの仕事の半数が機械に代替されるだろう」という衝撃的なものだった。
コンピューターテクノロジーの進化がもたらす世界的な産業変革により、将来、私たちの働き方が変わる──。著者として「経営者やビジネスマンにそんな危機意識を持ってほしかった」と新井さんはいうが、実際は「理想どおりにはいかず、映画の中の世界のようにSF的にとらえられてしまった」と振り返る。周りにコンピューターがあふれ、あらゆるものがインターネットにつながっている今とは違い、当時の人々にとってはいささか想像しづらい未来だったのかもしれない。
研究開始前から変わらぬ思い「それでも、東大には入れない」!?
そんな時、NIIから当時の主幹全員に「グランドチャレンジ(編集部注:長期的な視野でイノベーションを実現させるプロジェクト)」の企画立案が通達された。当時の所長から与えられた要件は「誰も思いついたことのない、ぶっとんだ企画を持ってこい!」。あれこれと企画を考えていた新井さんは、たまたまエレベーターで出くわしたロボット研究者・稲邑(いなむら)哲也さんに、何気なくこんな質問をしてみた。
「ねぇ、ロボットって東大に入るかしら?」
「突飛な質問に稲邑さんは頭を抱えていました(笑)」と新井さん
新井さんは自然言語処理研究をしていた宮尾祐介さん(NII)のところにも行き、同じ質問をぶつけた。ロボットと自然言語処理、各分野の2人の研究者を悩ます斬新奇抜な命題──。こうして生まれた東ロボプロジェクトの企画はNIIに提出され、見事グランドチャレンジに採択された。
2011年度から東ロボプロジェクトがスタート。プロジェクトでは「2016年度までに大学入試センター試験で高得点をマークすること」、「2021年度に東京大学入試を突破すること」を目標としている。2013年度と14年度には、代々木ゼミナール主催の全国センター模試を用いた各科目の解答システム評価を実施。14年度の成績は合計得点900点中386点で、偏差値は47.3。全国581私大の8割にあたる472大学で、合格可能性80%以上を表す「A判定」を獲得した。
2014年度 代々木ゼミナールセンター模試(第1回)での得点と偏差値
(提供:東ロボプロジェクト論文をもとに編集部作成)
この結果について、新井さんは「受験生の最頻値、すなわち大学を目指す学生のボリュームゾーンを超えられたことは大きな成果」と、その手応えを話す。しかし「ならば東大に入れるのか」との質問には、ずばり「それでも、東大には入れない」。これは、グランドチャレンジに企画を出したときからの変わらぬ考えだ。
「研究を進めていけば入れる大学は増えていくけれど、人間と同じようにはできないことが絶対にある。だから結局東大には入れず、どこかで限界を迎えるだろう。かねてから私はそう思っています」(新井さん)
どこまで人工知能に代替が可能なのかを探りたい
では、人工知能の限界を知ることにはどのような意味があるのか。現実問題として、人工知能でも人間と同じようには“できないこと”がある。それは「概念と推論」だと新井さんはいう。
「『民主主義の利点について答えなさい』のような抽象的な概念は、人工知能が苦手とするところです。さらに、『ネズミの脳下垂体(編集部注:脳の下部にあるホルモンを調整する器官)を摘出するとどのような変化が起こるか?』といった、推論的な問題も苦手としています」
この入試問題に対する答えは「尿量が増大する」が正解。しかし「ネズミの脳下垂体を摘出するとたいてい死んでしまう」と新井さん。
尿量が増大することは、実験をしても頻繁に起こることではないため、帰納的方法論では出てこない。また、演繹的方法論で答えを導けるわけでもない。そのため、こうした概念や推論が必要な「問題」は、人間から機械への代替が不可能ということになる。
「NIIは大学共同利用機関法人です。産学連携で最先端の人工知能技術を集め、オープンなプラットフォームに誰もが参入できるかたちで研究をしています。東ロボプロジェクトもNII単独で何か有益な人工知能を生み出すというよりも、どこまで人間から機械に代替が可能なのか。どこまでは不可能かを定量的に調べたい。同時に、毎年少しずつ人工知能でも入れる大学の数が増えていくことは、人工知能研究に対するリテラシーを高めると同時に、社会に大きなインパクトを与えます。それが、このプロジェクトにかけた私の思いなんです」(新井さん)