イタリア出身で、その後イギリスで長く研究生活を送ったピエロ・スラッファは、不思議な魅力のある経済学者である。彼はケインズに才能を見出されてケンブリッジ大学へ招聘されることになるが、その時点で経済理論に関する論文といえば、「生産費用と生産量の関係について」(1925年)と「競争的条件の下での収穫の法則」(1926年)の二つしかなかった[1]。だが、イギリスで圧倒的な権威をもっていたマーシャル経済学の欠陥を突いた二つの論文は、リチャード・カーンやジョーン・ロビンソンのようなケインズの愛弟子を初めとするケンブリッジの経済学者たちばかりでなく、学界全体にも大きな衝撃を与えた。
英語で書かれた1926年の論文は、英語圏の読者を考慮して、前年のイタリア語の論文を簡潔に要約することから始まっている。1925年の論文は、かいつまんでいえば、競争市場を仮定したマーシャルの部分均衡分析の枠組みと両立するのは「費用不変」(個々の商品の生産量が変化しても生産費が一定にとどまる。「収穫一定」といっても同じである)の場合のみであることを論証したものである。ところが、1926年の論文は、あるところで、それを超えて、「費用逓減」(「収穫逓増」)の現象を競争分析ではなく独占分析によって解明する方向を示唆していた。この方向は、必ずしもスラッファの本意ではなかったが、ケンブリッジで不完全競争論の定式化に向かった経済学者は、ほとんどすべてといってよいくらい、スラッファの示唆に影響を受けていた。カーンもジョーン・ロビンソンもそうである。
もう少し説明を加えよう[2]。マーシャルは、経済の現実を重視したひとだけに、当時から「大規模生産の経済」(「費用逓減」または「収穫逓増」)が製造業において支配的になっている事実に気づいていた。だが、もしその現象を「内部経済」(個々の企業内の資源・組織・経営の能率から生じる生産費の減少)によって説明しようとすると、他の企業よりも早くそれを実現した企業がついにはその産業を独占してしまうので、競争的価値論の枠組みが崩壊する。それゆえ、マーシャルは、費用逓減や収穫逓増が主に「外部経済」 (「産業の一般的発展」によってその産業内の個々の企業の生産費が減少すること)によって生じると処理することで競争的価値論の枠組みを守ろうとした。
だが、スラッファの鋭利な批判は、そのような「妥協」を直撃する。外部経済の利益は、例えば交通・運輸手段の発達のように、ある特定の産業ばかりでなく、関連のすべての産業に及ぶだろう。それゆえ、例えば鉄産業を他の諸産業から孤立させ、もっぱら鉄産業のみに外部経済の利益が行き渡るように考えて、鉄産業の供給曲線を右下がりに描くのは、部分均衡の枠組みと矛盾しているのだ。
スラッファが不完全競争論の方向を示唆するのは、ここからである。マーシャルによれば、内部経済に基づく費用逓減は競争市場と両立しなかった。だが、経験によれば、企業の大部分は「個別的な」費用逓減の下で動いている。それにもかかわらず、完全独占のような状況は、決して一般的ではない。それゆえ、スラッファは、個々の企業が生産量を増加させるときに遭遇する主な障壁は、生産費用ではなく、価格の引き下げや販売費用の増加によらなければより多くの商品を売りさばくことができないという事実にあるのだと考えた。ここから、不完全競争論につながる「右下がりの(個別的)需要曲線」というアイデアが生まれた。ジョーン・ロビンソンの『不完全競争の経済学』は、この示唆に基づいて不完全競争論をひとつの「完成品」に仕上げた古典であった。
だが、スラッファ自身は、不完全競争論の展開に関わることはなかった。彼は何をしていたのか。実は、彼は、1920年代後半から30年余りのちに出版されることになる『商品による商品の生産』(1960年)の構想について思索し続けていたのである。
『商品による商品の生産』は、一言でいえば、「価値と分配」の問題に生産の側からアプローチする「古典派」(とくに、リカードやマルクス)の方法の復権を意図しているが、ここで「古典派」という言葉は、セーの法則を容認しているというケインズの意味でのそれとは明確に異なる。『商品による商品の生産』のスラッファは、日々の需給状況によって絶えず変動する「市場価格」ではなく、リカードが「自然価格」、マルクスが「生産価格」と呼んだものに関心をもっている。すなわち、経済体系内の一時的・偶然的諸力ではなく、持続的諸力によって決まる「価格」を考察の対象にしているのである。彼が単に「価格」という場合は、この意味での価格であることに注意しなければならない。
『商品による商品の生産』において提示されたモデルを限られたスペースで解説することは不可能である[3]。その基本モデルの要点だけまとめると、次のようになるだろうか。――価格は、経済体系の不変の再生産を維持するために必要な投入・産出構造(スラッファの言葉では、「生産方法」)によって決まり、需要は何の役割も演じない。しかも、体系は「自由度1」であり、利潤率か賃金が外部から与えられなければモデルを閉じることはできない。スラッファ自身は、利潤率を外部から与える方法を示唆しているが、具体的な理由を述べているわけではない。ただ、利潤率が「生産の体系の外部から、とくに貨幣利子率の水準によって、決定されることが可能である」[4]という一文があるのみである。
この一文の解釈は決してやさしくない。最も素直なのは、モーリス・ドッブに倣って[6]、貨幣利子率の水準は何らかの政治的または制度的な意思決定のメカニズムによって決まるが、その水準以下の利潤率では企業が長期的に存続できなくなるという意味で最低の利潤率を画するに違いないという解釈だろう。だが、「自由度1」をめぐっては、いまだに見解の一致をみていない[6]。おそらく、スラッファは、モデルを閉じる方法よりも、利潤率と賃金の関係のような分配問題が歴史相対的な性格をもっており、「一般理論」によっては解けないことを示唆したかったのではないだろうか。
『商品による商品の生産』という小さな本は、厳密な論理をひたすら追究しようとしたスラッファの端正な文章によって書かれている。だが、スラッファと直に交流のあったひとの回想に出てくるスラッファの人柄は、ときに極めて「情熱的」なものである。彼は、祖国イタリアのアントニオ・グラムシ(マルクス主義の革命家・理論家)を獄中死に至るまで支援し続けたひとであり、また哲学者L・ヴィトゲンシュタインの前期から後期への思想の変化に重要な示唆を与えたひとであった[7]。このような経済学者は、現代では極めて希少になったが、一見全く関係ないようでも、インド出身の経済学者で初めてノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センをも魅了している不思議なひとである[8]。
【注】
[1]
1925年の論文はイタリア語で、1926年の論文は英語で書かれている。後者は、ケインズが編集長をつとめていた、世界的な学術誌『エコノミック・ジャーナル』に掲載されたが、ケインズにスラッファを推したのは、イタリア語の論文を読んでいたF・Y・エッジワースであったという。二つの論文の翻訳は、『経済学における古典と近代』菱山泉・田口芳弘訳(有斐閣、1956年)に収められている。
[2]
菱山泉「不完全競争の理論」(杉原四郎・鶴田満彦・菱山泉・松浦保編『限界革命の経済思想』有斐閣新書、1977年)171-173ページ参照。
[3]
スラッファ経済学入門としては、いまだに、菱山泉『ケネーからスラッファへ』(名古屋大学出版会、1990年)を超えるものはない。
[4]
ピエロ・スラッファ『商品による商品の生産』菱山泉・山下博訳(有斐閣、1,962年)57ページ。
[5]
モーリス・ドッブ『価値と分配の理論』岸本重陳訳(新評論、1976年)312ページ。
[6]
Luigi L. Pasinetti,” Sraffa on income distribution”, Cambridge Journal of Economics, vol.12, 1988, pp.135-138.
[7]
詳しくは、菱山泉『スラッファ経済学の現代的評価』(京都大学学術出版会、1993年)を参照のこと。
[8]
Amartya Sen,” Sraffa, Wittgenstein, and Gramsci”, Journal of Economic Literature, December 2003,pp.1240-1255.