English Janglish

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日本市場でヒットしたのがニュースになっていた、

http://www.thehindu.com/entertainment/english-vinglish-collects-420000-at-the-japanese-box-office/article6272774.ece

ので日本でも観た人が多いのだと思うが、
Gauri Shindeの傑作、「English Vinglish」のなかの最も美しいシーンは、主人公に恋心を寄せるMehdi Nebbouのフランス人シェフとSunil Lullaの主人公が(お互いに通じないはずの)フランス語とヒンディ語で「会話」をするところで、判らないはずの言葉をお互いに目をじっと見つめ合いながら懸命に聴き取ろうとする。
もちろん聴き取っても判るわけはないが、それでも、ひとことも洩らさずに真剣に聴き取ろうとする。

映画に出てくる英会話学校のビルがぼくのアパートメントのすぐそばで、なつかしい街頭や地下鉄の駅が出てくるせいもあるが、モニとふたりでGauri Shindeの表現力の豊かさにうっとりしてしまった。

英語ができないせいで家庭内の会話にもついていかれず、知性の勝った娘にバカにされて、ニュージャージーに住む姪の結婚式に出席するために出かけたニューヨークで、内緒のまま四週間の英会話クラスに通い、だんだんと自分が妻として母親として自信がもてないのは周囲が自分に対するrespectをもたず、人間である個人として扱われなくて、ただの母親と妻という「機能」でしかなく、なにをするにもくさされて、誰も励ましてくれたり助けてくれたりしないからだと気が付いてゆく主婦の姿を描く、この映画は言語と伝達の問題についても十分に示唆的で、感動的であると思う。

連合王国で出遭う上流階級のインド人の若い女のひとたちは、イギリス人とまったく変わらない思考をする。
話し方もシティ式というか、「機関銃のような」スピードで、「わたしは自分のキャリア形成以外に何も興味ないの。文句あっか?」な人がおおくて、あらっぽいことをいうと、ウォール街のMBAたちと変わらない。
アメリカの女のひとたちに較べて、英国式に、やや剣呑で、理屈っぽいかなあー、という程度の違いです。

その少し下の中流階級となると、とても面白い。
この映画にも出てくるが、まず家庭のなかの会話が英語である。
「英語ができない祖母」というような人が家庭のなかにいると、その人がいる前でだけ出身地のヒンディ語やベンガル語、タミル語…に変わる。
大企業に勤めていれば、たとえば仕事上ベンガル人と話をしなければならないときは、当然、全員が英語で話す。
映画のなかでも娘が恥ずかしがって母親を他人にあわせないように工夫するところがあるが、インドの社会では「英語ができない」ことは「遅れた人」「劣った人」と見做される。
貧困のイメージとも分かちがたく結びついている。

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この場面で出てくるような「失礼な店員」は英語圏の都会にはどこにもいる。
マンハッタンはもちろんだが、ロンドンにもオークランドにもいます。
日本では「発音は、そんなに気にしなくていいですから」と英語人たちも日本人に述べているようだが、相手が親身になって耳をそばだてて聞いてくれれば初めて通じるような英語は、20年前と異なって、通じない英語でしかない。
日本式な、カタカナ発音をひきずった英語など、聞きたくない、音が嫌だ、という気持が先に立って、余程必要でなければ、ものの10秒で耳殻の自動シャッターがおりてしまう。

21世紀の英語圏世界の特徴は、観光地や、学校やホームステイというような外国人を「お客さん」とする場所は別にして、「自分達と同じように話せない人間」に苛立ちを隠さない人間がたくさんいることで、実際、ぼくは日本人の女の人が、イライラを隠さない、丁度この動画のアフリカンアメリカンそっくりのサンドイッチ店の店員にカウンターを叩かれて、「はっきり言ってくれないと、食べ物がつくれないでしょう!」と怒鳴られて半ベソをかいていたのを観たことがある。
列の後ろにぼくとふたりで並んでいた従兄弟が店員のアフリカンアメリカンのねーちゃんに、「おい、カスタマーファーストはどこに行ったんだよ。もうちょっとやさしい口の利き方してあげなよ」と言って、そのあとに、ここには書けないチョー下品な冗談を言って店員ねーちゃんを大笑いさせていたので、女の人も落ち着きを取り戻して注文していたが、要するに自分をまったくマヌケ扱いする相手にパニックを起こしていたのだと思われる。

「English Vinglish」の主題のひとつは「respect」で、日本語に訳すと「敬意」になってしまうが、要するに相手のありようをそのまま認めて同じ人間同士としての尊敬をこめた情緒的距離で誰かと接することです。

映画のなかでも妻がつくった菓子のノックアウトなおいしさに、夫が、「きみはお菓子をつくるために生まれてきたような女だ」と述べて、言われた妻のほうは深く傷付くところが出てくる。
家事全般、育児上手や料理の腕前ばかりほめる夫とは離婚するのが最もよいが、それと同じことで、「自分を人間としては認めてくれないのか」と自分の全存在を否定された気持になる。

「わたしは女ではなくて人間なのだ」という女のひとたちの叫び声が社会として聞こえていない社会は、これからの世界で存在をやめるべき社会であるし、いまの時代ではほとんどなくなったが、たとえば、
ぼくの仲のよい友人のテキサス人は「テキサスでクルマを運転しない人間なんていない」というので、彼の会社のマネージャーのガールフレンドの名前をあげて、「あのひとはクルマ運転しないじゃない」と反例を述べたら、「だって、ガメ、あのひとはアジア人じゃないか」と述べて、ぼくに散々からかわれた、そうやって上手に隠しているつもりの人種差別意識が、おもわぬことで顔をのぞかせるように、本人もちゃんとは気づいていない性差別意識が、のぞいて、夫婦同士で会っていて、あとでモニに「あの奥さんかわいそうだね」と述べることがよくある。

残念なことに日本は「respect」が存在しない社会で有名で、ひさしぶりに出かけた料理屋で「あら、ガメちゃん、少し顔が年とったんじゃない?」と言われたりして、びっくりすることがあった。
聞いてみると、みな同じ経験があって、ひどい例は、シカゴ人のアフリカンアメリカンの友達が友達であるはずの女のひとに「日焼けしたね」と言われて、殴りたいのを我慢するのがたいへんだった、と述べたりしていた。

日本語インターネットの特徴は、いきなり失礼な態度で話しかけてきたり、中傷を続けたり、ずうううううっっと特定の対象人の悪口を何年もあきずに続けてみたりで、全体として悪意と憎悪に満ち満ちているところで、英語でももちろん同じようなマヌケはたくさん存在して、特に匿名のコメントのようなものには、日本風な憎悪の呪詛がよくあるが、しかし誰かが「うるさいな、きみ、悪意しかないんだったら黙ってなよ」と必ず述べたりするところと、なによりも悪意と憎悪の言葉を吐き続ける人間の数が、その文字通り桁違いにおおきな割合によって言葉が交わされる日本語世界を、圧倒的な量によって他の言語とは質的に異なるものに変えてしまうほどおおきい点で、根本から異なる。

日本語は憎悪語と化していて、美しさのかけらもない言語になってしまっている。
その第一の理由は、このブログで何度も書いたように日本の社会には他人へのrespectがそもそも存在しないからであるように思われる。
自分が正しいことを他人たちに納得させる自信があれば、どんな薄汚い言葉で他人を罵っても「正しいんだから」で許容されるのが日本語というものの特徴で、
「正しさ」を看板にかけておけば、どれほど卑劣な人間でも、ぞろぞろ後ろをついて歩く人間たちがいる。

「安倍なんか死ねばいい」というような自国の首相への呪詛がずらずらと並ぶSNSのタイムラインが普通に存在する社会でrespectと言っても、ちゃんとは通じるわけがない、という気がする。
こう言うと怒る人がいっぱいいるのは知っているが、自分達の文明の「立法者」である山本太郎へ、なんの敬意も感じずに舗道上に押し倒してしまう警官がとがめられもしない不法な社会を生み出したのは、結局は、全体主義をめざす悪魔のような首相ならば皆で口を極めて罵倒しても良いと皆で自然に一致する、同種のrespectの欠落なのである。
どうも、その悪語彙を極めた罵倒の結果、自分たちの言語自体が意味を失ってしまうことのほうは、自分が憎む者を罵倒した爽快感にかき消されて、どうでもよくなってしまうもののようにみえる。

日本語が言語として空洞化して「意味」自体を失ってしまったのは、それはそれで別に何度も述べてきた「現実が剥がれおちた観念性」にだけあるのではなくて、そもそも、相手に泥をぶつけるというか、自分の涎をなすりつけるというか、言語として薄汚い言葉の使い方しかされなかったことの結果でもあって、フランス語とヒンディで懸命に会話する映画のなかの主人公たちとは逆に、どの「議論」を眺めても同じ日本語で話しているのにまったく意味が通じていないのは、相手に対してかけらもrespectをもたない日本の惨めな文明の結果でしょう。

善意がないところには何も育たないのは、文明というものの有名な性質だが、日本語人は、ただ悪意と憎悪で自分達の言語世界を埋めつくすことによって、自分たちの文明の根幹である言語そのものを破壊してしまった。

そのことには下から上への一方通行になってしまった不具の敬語や、社会から個人へのすさまじい抑圧がかける負荷や、個人として行動したことがないことからくる不正に対する臆病さ、いろいろな理由があるだろうが、もうここまで来てしまっては日本語の再建など無理なので、難しそうに見えても、インド人を見習って、英語にそっくり言語を変えてしまうのがよさそうです。

この映画のラストでは、妻が、皆がおもいもよらなかった英語でスピーチをすることによって、夫は自分で意識しないまま妻へのrespectを持っていなかったことに気づく。
娘も、自分が母親を家族として連盟していなかったのを知って自分自身に愕然とする。

いつかインド人の友達にインドの伝統的な夫婦のありかたが、いまのような姿に急速に変わって、個人と個人の連盟とでもいうような夫と妻の対等の結びつきになったのはなぜだろう、と聞いたら即座に「使う言語が英語になったからさ」と応えた。
「英語が分布している地域と男と女の性差別が小さくなった地域が、ぴったり重なるもの」

不動産の契約に最も向いているとでもいうような索漠として味気ない英語にも意外な良い点はあって、大陸欧州語と較べても少なくとも男性も女性もない言語なので、話す時にいちいち自分が男であったり女であったりすることを思い出さないですむ、というメリットはある。
ついでに、憎悪に満ちた言語を撒き散らしている人たちは、同時に「日本語世界でしか通じない理屈」を述べる人達とも重なるので、その点でもめんどくさいことがなくなる可能性がある。
夢をみれば、日本語世界にもrespectという観念がうまれるかもしれなくて、

「一石二鳥」、なのかもしれません。

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3 thoughts on “English Janglish

  1. >残念なことに日本は「respect」が存在しない社会で有名で、ひさしぶりに出かけた料理屋で「あら、ガメちゃん、少し顔が年とったんじゃない?」と言われたりして、びっくりすることがあった。
    聞いてみると、みな同じ経験があって、ひどい例は、シカゴ人のアフリカンアメリカンの友達が友達であるはずの女のひとに「日焼けしたね」と言われて、殴りたいのを我慢するのがたいへんだった、と述べたりしていた。

    日本的な他者に干渉することでのお節介の意識でしょうね。
    他者を他者として認識していない、例えば、新婚の夫婦に「子供はまだ?」=「セックスはまだ?」と尋ねるような事等。

  2. 江戸時代までのニホン本土ではrespectが無くても、回っていたのかもしれませんね。

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