長崎 原爆投下から3日後 列車の運行再開の詳細資料
原爆が投下され壊滅的な被害を受けた長崎の中心部で、当時の国鉄の線路の復旧に当たった責任者の手記が残されていたことがわかりました。この中では、陸軍の支援を受けて3日後に列車の運行を再開していたことなど、当時の詳しい状況が記載されていて、専門家は長崎が復興する経緯を知るうえで重要な資料だとしています。
8月9日に長崎に原爆が投下された直後、中心部の長崎駅と道ノ尾駅の間のおよそ6キロは、壊滅的な被害を受けて列車の運行ができなくなりました。その後、再開されましたが、被爆後の混乱が続くなか、いつどのように復旧したのかについてはさまざまな資料や証言があり、はっきりわかっていませんでした。
これについて、当時、現場の指揮をとった国鉄の管理部長の手記と日記が残されていたことが新たにわかりました。手記と日記は管理部長の長男などが保管していて、この中には、陸軍が200人から300人ほどの人員を出して支援を行い、原爆投下の翌日から復旧作業に当たっていたことなどが記されています。
そして、被爆から3日後の8月12日の朝には長崎駅を発着する列車を運行していたとしています。
長崎原爆資料館の奥野正太郎学芸員は、列車の運行再開は救援物資の搬送など復興に向けて大きな役割を果たしたと指摘し、「どういう経緯をたどって復興していったかという歴史の隙間を埋める非常に重要なものになると思う」と話しています。
これについて、当時、現場の指揮をとった国鉄の管理部長の手記と日記が残されていたことが新たにわかりました。手記と日記は管理部長の長男などが保管していて、この中には、陸軍が200人から300人ほどの人員を出して支援を行い、原爆投下の翌日から復旧作業に当たっていたことなどが記されています。
そして、被爆から3日後の8月12日の朝には長崎駅を発着する列車を運行していたとしています。
長崎原爆資料館の奥野正太郎学芸員は、列車の運行再開は救援物資の搬送など復興に向けて大きな役割を果たしたと指摘し、「どういう経緯をたどって復興していったかという歴史の隙間を埋める非常に重要なものになると思う」と話しています。