――筆者のジェラルド・ベーカーはWSJ編集局長
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21世紀初めの高度に統合された世界経済において「貴族階級」があるとすれば、スイスの山岳リゾート地、ダボスに今週顔をそろえる人々だといってもほぼ間違いないだろう。
ダボスで毎年1月に開かれる世界経済フォーラム(WEF)年次総会(通称ダボス会議)には、各国の政府首脳や中央銀行総裁、主要銀行やグローバル企業の最高経営責任者(CEO)、有力な学者、メディアや芸能界の華やかなスターが集う。そして彼らが構築し、支配してきた世界の状況を俯瞰(ふかん)し、もっとよくする方法を話し合うのだ。
今年スイスに集まった貴族階級は、もし十分に敏感であれば、同様に金回りのよい先人が18世紀末のフランスや20世紀初頭のロシアで置かれたのとそっくりの居心地悪い立場だと感じ始めるかもしれない。
2016年に主要経済国を席巻したポピュリズム的な怒りの潮流――英国の欧州連合(EU)離脱を決めた国民投票やドナルド・トランプ氏の米大統領選での勝利がハイライトだが――は、他の先進国でも極右政党や反エスタブリッシュメント(反支配階級)勢力への支持拡大という形で広がり、「ダボスマン」(ダボス会議に集まるエリート層)の上品にしつらえた玄関先まで押し寄せている。
怒りの矛先を象徴する集団
WEFは今週の会議に漂うエリート臭を打ち消すのに躍起となり、これ見よがしの快楽趣味には眉をひそめ、人生の勝者としての特権よりもその責任について真摯(しんし)に話し合おうと促している。
それでもシャンパンやキャビアはふんだんに振る舞われるだろう。1780年代のベルサイユ宮殿や1900年代のロシア帝国の冬宮と変わらぬほどのぜいたくさだ。
いまや世界のグローバリズム主導者に向け、かつてないほど鐘が大きく打ち鳴らされている。これほどの怒りやナショナリズムの高まりの標的として最も象徴的な機関や人々の集団を1つ挙げるとすれば、ダボス会議だろう。
ダボスは単に場所や人々の集団ではなく1つの理念だ。しかも、冷戦終結後の25年間の世界を実際に支配し、大きな成功を収めてきた理念なのだ。
その本質はこうだ。世界は1つの巨大な市場であり、機会であり、政治形態である。世界的な経済活動への障壁は取り除くべきで、国境や国民感情、国家主権はグローバルな超国家機関に従属する必要がある。気候変動や世界的な貧困や病気といった難題に直面すると、国家は無力であるばかりかむしろ問題解決への危険な障害となり得る。
ダボス会議のメンバーはこうした理念の主要な受益者であり、それは偶然の一致ではない。
EUや国連といった超国家機関やWEF自身はもちろん、低コストの新興国地域に生産拠点を移転することで巨額の経済的利益を得てきた多国籍企業もそうだ。
銀行はグローバル化を糧とし、それをあおる役目を果たした。投資や大型案件の仲介、トレーディングなどで手数料をたんまり稼いだ。
学術界や芸術、メディア、芸能界の文化的リーダーは常に世界を駆け巡り、季節ごとにニューヨークからカリブ海のセントバーツ島、ロンドン、スイスのサンモリッツへと移住する。
ダボスで問われる2つのこと
こうした社交クラブとそれ以外の世界との分断は鮮明だ。ここに集まる米国人、英国人、フランス人、中国人、インド人は、グローバル化の波に取り残された地元の同胞人よりも、相互に共通する部分がはるかに多い。
問題の核心はそこにある。ダボスの理念は、世界を動き回る根無し草のようなリーダーには驚くほど効果が大きかった。しかし地元にとどまる人々、すなわち教育水準が低く、均質化した経済環境で成功するのに必要な手段や資金に縁がない人々にとっては明白な恩恵がなかった。
グローバル化は過去4半世紀、世界経済が急成長を遂げるのに間違いなく寄与し、何億もの人々を貧困から救い出した。
しかし多くの人々、特に西側諸国の大衆にとって代償は大きかった。そして他の地域の多くの人々には、国民の団結の対極にあるグローバルな連帯感という考え方が響かないのだ。とりわけテロの時代には、国境は人の移動や貿易を妨げる障壁というより、理解しがたい脅威から身を守る安全手段と見なされる傾向が強い。
今年のダボス会議では2つの問いが投げかけられる。リーダーたちは境界線の維持や回復を望む有権者を今後もはねつけ、人種差別主義者や外国人嫌い、さらにはネオ・ファシストだとあざけり続けるのか、あるいは少なくともグローバル主義の考え方に対する国民感情の正当性を認めるように努力する考えがあるのか?
次に、それに関して何か行動するつもりだとしたらどんなことか?
貴族階級の歴史はたいてい不幸な結末を迎えている。2017年のダボス会議参加者がこうした疑問に答える努力を始めなければ、ブルボン王朝やロマノフ王朝に起きたことの現代版が、せいぜいそれほど激しい暴力を伴わず多くの死者を出さない形で、最終的には同じ重大な結果をもたらすのを待つしかないだろう。