記事は、断定して書くべきでしょうか。たとえば「思います」を避けて「です・ます」で言い切る。こう書くことで、切れ味の良い読者に刺さる文章になるといいます。私も、以前は、文章は断定した方が良いと考えていました。しかし、今は無理に断定した書き方が本当に良いのか、懐疑的です。
断定で反応をとるか誤読を避けるか
断定すると反応が上がる、といいます。でも、反応もいろいろ。狙いどおり、鋭い視点だ、切れる、と好印象を持つ人もいますが、何人かは、そうとは言えない、と反感や疑問を持つ人もいるのではないでしょうか。
反感自体が望ましくないのですが、それ以上に問題なのは、断定することで誤読する人が増えることです。その人のことを指してはいないのに、誤読によって批判、攻撃されたと傷つく人もいるからです。
読めばわかるは書き手の甘え!?
書き手の立場では、文脈を読めばわかる、と考えます。読解力の問題とも言います。けれども最近は、読者の「読解力」に期待した書き方をするのもどうなのか、と思います。基本は、流し読みをしても、誤解をされないように書く方が良いのではないでしょうか。
たしかに、主張を断定せず、誤読を避ける説明を入れると文章の鋭さは失われます。長くもなります。結果、ポジティブ、ネガティブも含めて全体の反応は減るでしょう。でも、ネガティブの反応が減るというのは良いことではありませんか?
記事を投稿する目的は?
記事を投稿する目的は、私の場合は、誰彼なく反応をしてもらうためではありません。少人数でも、気づきや発見につながり、面白いと感じてくれる人がいればいいな、と思います。しかし、そのために誰かを傷つけたり、不快な思いをさせたりするのは不本意なのです。
1000人の喝采を浴びる反面、100人を不快にする、こうしたものよりも、誰も傷つけず、数人が「なるほど」と思う記事を私は書きたい。ブログは、長期間続けるものです。数人の心に響く記事を書き続けたら、読者は着実に増えていくと思います。
断定しない説得力
断定しない記事、説明がましい記事は、腰の引けた記事で、読者の支持は得られないという考え方もあります。はたしてそうでしょうか?
専門家、学者の著した文献は、正確を期すため、容易に断定しません。可能性は可能性に留めて表現します。断定する場合でも、どういう条件で成立するのか明示してあります。さらに、参考文献や証拠も示されています。だからこそ、信憑性が高い、ともいえます。
個人のブログでそこまでは難しいですが、乱暴に断定しない、別の可能性のあるものは、きちんとそれを示す、どういう前提でそれが言えるのか条件を示す、こうした配慮は、かえって主張の説得力を増すことにつながるでしょう。
誤解は完全には防げないが配慮は伝わる
この記事は、もしかしたらこう誤解されるのではないか、という視点で、補足説明を加える。こうした細心の注意を払っても誤読は完全には防げません。けれど、モノの分かる人が読めば、細かいところまで気を使っている、書き手の心映えは伝わります。
「聞き手の
文脈を読めばわかる、そういう意図ではない、と力説しても後の祭りです。態度を頑なにした相手は聞く耳を持たないでしょう。ならば多少反応が薄れ、文章のキレや艶が失われても、無闇に断定せず、周到な文章を書いた方が良いのではないでしょうか。
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