世の中は面白いくらい単純で。
Twitter一つを見てみても
意識が高い系と意識低い系で
バッサリ分かれている。
[それぞれのルール]
片方では勉強する事や
国家資格を取り、社会のルールの中で
戦う事の大切さが説かれている。
高度な人だと、身体のメンテナンスに
ついても言及されていたりする。
この意識が高い人達の話題は
いかに高度な企業戦士として自分を
売り込み、稼ぐかが主な話題だ。
究極的には最強の戦士となり、
何かをキッカケにExitして投資家の
ような身分を目指しているような方や
既に投資家になっている方が多い。
もう片方はどうか。
主に「自分の物差し」で生きる事が
最高だとされている。
もっと緩い生き方しようぜ!
が合言葉のようだ。
こちらでは、学歴なんて必要ないとか、
正社員になんてならなくても良いとか、
プチ起業をするとか、田舎に移住する、
自分メディアを持つ事などが話題になる。
たまにサロンとやらを経営して
情弱からお金を巻き上げるタイプの
人もいて、そういう人は意識が高いと
言えるのかもしれない。
おそらく前者は既得権に自分を売り込んだり、
決められたルールの中で生きようとする生き方。
後者は枠からはみ出して何かを創造しようと
したり、ルールを壊そうとする生き方。
どちらかに優劣があるとかはまだわからない。
だから自分自身の状況によって選べば良いと思う。
前者は持つ者の戦略に近い、
後者は持たざる者の戦略だ。
[僕はどちらの生き方か?]
おそらく簡単に二元論で言いきれない
バウンダリーなポジションだと思う。
意識が高い系と意識が低い系を
大別して二つの生き方にしたけれども、
僕の仲間に多いのは前者の生き方だ。
頻繁に付き合う仲間は皆学歴があり、
高度な資格を持っていたり、
社会的に有利なポジションに就いている。
何故か僕だけ謎ポジションである。
正直言って、決められた事をやれば、
給料も貰えるし、社会的には安定しているように
思われたり凄い風に思われるし得な事が多いと思う。
思考停止せずに、自分とは何者か?
を問い続けて刃を磨き続ける事ができれば、
意識が高い人の方が生き残っていく上では
圧倒的に有利だとは思う。
[自分とは何者か?]
結局はこれに尽きるのではないだろうか。
ポジショニングと言うか、自らが置かれた
立場で最善の選択肢をし続ければ良い。
高学歴で就活も成功したのに、
「俺の世界はこんなに狭くないんだ」
とか言って就職先を辞退して旅人に
なるとかは経済合理性から言うと
勿体無い。僕だったらしない。
逆に持たざる偏差値35とかの若者が
「俺は超勉強して大逆転しますんで」
と発言して会計士を目指すのも暴挙だ。
勿論、全てを賭けるくらいの変化を
見せる人もいるかもしれないが、
挑戦したうちの1/10000くらいの人しか
そういう勝利をおさめないと思う。
そういった勝負をして勝利をした方を
賞賛したいと思う。
常に僕は考えるのだが、
自分は今どういう状況か?
何を優先すべきかを考えるのが
幸せになるコツだと思う。
極端な例えを言うならば、
経済力や家の力がグングン上がっいて、
その守り方を知らなくてはならないのに、
下手な攻めをしてしまう人は間違っている。
守るのは資産であり、家柄である。
逆に経済力や家の力がガンガン落ちている
のに、稼ごうとせずに下手な道楽をしたり、
それまでのプライドを守ろうとするのも
間違っていると思う。家柄やプライドが
邪魔する事もあるだろう。
[結局は意識が高くなる]
世の中は残酷で結局は情弱を情強が
絞り上げているような構造になっている。
アルファブロガーとかで顔を出している
イケダハヤトさんや、はあちゅうさん等を
見ていても、結局はきちんとしたサービスや
情報を提供してサロンを運営しているだろうけど、
頭が良い人のやり方だ。
経歴を見ても彼らは早稲田大学と慶應義塾大学。
社会のエスタブリッシュ層はおそらくそういった、
人達で構成されているので、様々なコネクションも
あると思う。
結局は世の中は頭が良い人が、頭が悪い人を
マイルドに小さく騙したり、利用したりして集金する
仕組みになっているのだなと思う。
勿論、僕はそういったサロン等には加入していないし、
雰囲気だけで述べている。だが、これだけはわかるのだが、
ああいったサロン等では、加入者が横のつながりを幾ら
作ったり、頂点の運営者の真似をしても、同じ成果を得る
事は不可能だ。自分がサロンを経営する位の能力者になり、
知名度を上げてアクションをするしかないのである。
そう思うと、結局は沢山の勉強をしたり、集団での振る舞い
方などを学んだり、意識を高くしないと大きなお金は得られ
ないであろうと勝手に予想している。
[これから...]
今回、このようなテーマを書いていて思ったのは、
バウンダリーを気取っている自分も結局は、
意識が高いとされる生き方をしているだろうと
思った事だ。選びきれていなかった。
自分の物差しで、自分の評価で生きられれば、
年収150万円でも良いとかそういう極論も世の中
にはあるのかもしれない。
周りとのささやかな
承認欲求の満たし合いができれば満足な人も
いるかもしれない。
だけど、自分の中の闘争本能がどこかで燃え上るし、
どこかで自分の物差しで生きようという事に欺瞞を
感じたりもする。そして、それは諦めが入った生き方だ。
どうせならば、そういった一種の諦めが入った生き方は
40代や50代になって、本当に何者にもなれなかった
時まで取っておけば良い気がした。
20代の僕はまだ、何者かになれるかもしれない。
そういう事を思いながらこの文章を書いている。