世間はGWまっただ中だというのに環八の目前で自転車を派手に一回転させた結果、左手を骨折したのでキーボードは片手打ちしかできない。特にGWと骨折との間に因果関係は無いけど、つらい。そんな中で嗜む高田馬場のスタバの抹茶ブラウニーは、うまい。こんなこと言ってるから貧寒な語彙力ばかりが露呈してしまう。
さて、腰巻きビルについて思った以上に多くの反響をいただいた。まず申し上げておくべきこととして(散々申し上げてきたことだが)、Twitterは民主主義に基づくハナシアイツールといった高貴なシロモノなどではなくあくまで掃き溜めに過ぎないと私は思っている。
(参照:「この国の最高責任者は首相じゃない」が叩かれるこの国の異様性)
だから上記togetterコメントの一部に見られるような、マトメありきで論考の至らなさを責める煽りコメントには私は与しない。とはいえ、さまざまな指摘を受ける中でいくつか付記すべき点を見つけたので、改めて続編記事を執筆することとしよう。
まず「なぜ『腰巻きビル』が無くならないかの原因ついて十分な論考がなされていない」という指摘がある。これについては『新・都市論TOKYO』の中で隈研吾氏が清野由美氏との対談中に断続して語っている通り、歴史的建造物を保存することにより得られる「特定街区制度」の存在が挙げられる。敷地内に歴史的建造物を配置することで隣地からの容積率移転が可能になるのだ。東京駅前の丸の内ビルやJPタワーは、この制度を活用して東京駅上の余剰な容積率を移転している。
wikipediaより丸の内の高層ビル群。「腰巻きビルも景観のアクセントには良いじゃん」という声もあるが、少なくとも上の写真の中ですら左端から丸ビル、新丸ビルを挟んで三菱信託銀行ビルと殆どが腰巻きビルであり、アクセントもクソも景観の主体と化している。丸の内にはこの他にも無数の腰巻きビルが林立している。
要するに、この制度こそが腰巻きビルを量産させる第一の要因なのである。デザインが発展途上のまま再開発の要請ばかりが増えるから、かつて31メートルのスカイラインが美しかった丸の内なんかは今やダッサい腰巻きビルの品評会のような様相を見せている。
隈氏は同書で腰巻きビルについて「どの保存も個々のデザインは発展途上としかいいようがない。でも、壊してしまうより、保存のほうがいいことは確かです」と語っている。後に歌舞伎座タワーの設計を手掛けることになる隈氏がこのような発言をすること自体、甚だ皮肉めかしい感覚を覚えるが、発刊より10年近くを経ても未だ同じようなガラスのファサードを載せた腰巻きビルばかりが量産されている現状は、デザインの限界を感じざるを得ない。
それで良いのではないか、という指摘もある。あのキメラ的なファサードが好きだという声も散見される。この点についてはもはや主観に依る所が大きいから、個人の感想はそれとして尊重するとしても、しかし全体の都市景観を考えた時に、腰巻きビルの量産は容認しがたいものがある。
高度成長期以降、経済大国への道を歩みながら急速に建築技術が多様化する中で、わが国の景観は無秩序に破壊されてきた。だから現代の多様化した建築技術のもとで調和した景観を保つためには、行政による規制やゾーニングが不可欠なのである。現に欧州では、フランスのマルロー法をはじめとしてさまざまな規制やゾーニングがなされてきた。
そうであるなら、少なくとも丸の内などは31メートルのスカイラインに文化的価値を見出して保全地区とすべきではなかっただろうか。腰巻きビルの建築学的な総括がなされないまま、そのデザインに進化が見られないのなら、量産される腰巻きビル群は都市景観的には単なる「調和を乱す邪魔者」に過ぎない。このことを考えると、やはり単に「保存するほうがいいこと」とは無批判に言えるものではない。
そういう混沌さが日本を含めた東洋の魅力だと指摘する声もある。しかし、現在つくられている腰巻きビルのある都市景観は混沌さを象徴するシロモノではなく、単なる無計画のシロモノである。そもそも文化学者のアレックス・カー氏も指摘している通り、クアラルンプールやシンガポールの都市景観にも混沌さは見られないし、かつての長安や平安京の都市計画も、碁盤の目の調和に基づいた物だったのである。カー氏の言葉を借りれば「アジア混沌論は『文明開化』から続く、日本人による自己嫌悪の表れ」(『ニッポン景観論』)に過ぎないのである。
訪日外国人旅行者数2000万人を国策として掲げるわが国にあって、歴史的建造物がそれ自体に文化的価値を有するという意識はあまりに貧弱すぎる印象がある。これは人口減少社会を迎えたわが国において未だパラダイムシフトに至っていない最たる例といっても過言ではないだろう。耐震化が、と指摘する声もあるが、歴史的建造物の免震工事については既にいくつも施工例が存在するから大した問題ではないはずである(愛知県庁本庁舎など)。いずれにせよ、都心における歴史的建造物の保存方法が腰巻きビル一択という現状は、大きな問題と言わざるを得ない。この問題に対して真剣に日本の建築学や都市工学、地理学が向き合わないのなら、日本のポストモダン建築にも未来があるとは思えないのだが、そんな機運も無さそうである。
一連の論議をtogetterにまとめました。ご覧ください
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