波乱万丈の人生にふさわしい、死ぬ直前に吐いたクールなセリフ
漫画・アニメでは「クールなセリフ」を吐いて死ぬキャラがたくさんいます。
有名なところで言ったら、北斗の拳・ラオウの「我が生涯に一片の悔いなし」でしょうか。みんなそれぞれ思い入れがあって、好きなキャラの死にぎわのセリフがきっとあるでしょうね。
現実の歴史上の人物にもカッコイイセリフを吐いて死んでいった者がたくさんいます。そのかっこよさはまるで漫画のようです。
1. ファヴリッツォ・クアトロッキ 1968-2004(イタリア)
2004年4月、イラクで活動するイタリアの民間軍事会社のグループがテロ組織に拉致され、彼らの処刑の模様がカタールのテレビ局アル・ジャジーラによって世界中に放送されました。
この中でシチリア出身の元パン屋ファヴリッツォ・クアトロッキは、自分で入る穴を自分で掘らされ、その後目隠しをされて穴の前に立たされ、背後から銃で狙われ撃たれる寸前にこう叫びました。
"Vi faccio vedere come muore un Italiano! (イタリア人の死に様をお前らに見せてやるぜ)"
クアトロッキは首の後ろを撃たれて即死しました。
彼の最期が報道されるとクアトロッキの死に様はイタリア中で感動と称賛を呼び、外務大臣フランコ・ファラッティーニは彼の家族に哀悼の意を捧げると同時に「彼は英雄だ」と言い、テロに屈しない毅然とした姿勢を称賛したのでした。
'I'll show you how an Italian dies': hero hostage - SpecialsWarOnIraq - www.smh.com.au
2.ジョルジュ・ダントン 1759-1794(フランス)
ジョルジュ・ダントンはフランス革命でダントン派を率いた男。
革命を続行させつつも、山岳派右派(ダントン派)を率い恐怖政治の廃止を訴えますが、ロベスピエール派との抗争に敗れ死刑になってしまう。
その処刑の日の彼の毅然とした態度は非常に有名です。
処刑場に向かう道すがら政敵のロベスピエールの家の前を通りかかると「ロベスピエール!次は貴様の番だ!」と叫び、ギロチンにかけられ処刑される直前も「俺の首を後で群衆に見せてやれ!これだけの首はめったにないぞ!」と叫ぶなど、革命の嵐を戦い抜いた闘志らしく死んでいきました。
以下のスケッチは、「俺の首を〜」を吐くダントンのスケッチ。カッコイイすね。
Photo by Mcleclat
3. ローマのラウレンティス 225-258(ローマ帝国)
ローマのラウレンティスはローマ帝国で未だキリスト教が禁止されていたヴァレリアヌス帝の時代に生きた人で、当時のローマ教会の指導者だった人です。
ローマの治安当局に逮捕され、火あぶりでの処刑を命じられますが、その時彼が吐いたセリフが非常に有名。
体の片方(背か?)を焼かれていた時に死刑執行人にこう言った。
「こっち側は焼けたぜ、ひっくり返しな」
その毅然とした態度に感動した多くの人がキリスト教に帰依したと言われています。
4. シッティング・ブル 1831-1890(アメリカ)
スー族の大戦士シッティング・ブル(タタンカ・イヨタケ)は、アメリカ西部のインディアン戦争でアメリカ白人に最後まで抵抗した最も有名なインディアンです。
大戦士として部族の垣根を越えて名を馳せていた彼は、アメリカ白人にとってみたら「いつインディアンを扇動するかわからない危険な男」。インディアン部族を各個撃破しインディアン戦争が大方終結した後も、アメリカは影響力の大きいシッティング・ブルを常に監視し、逮捕・処刑の機会を伺っていました。
スタンディング・ロック保有地のグランド川のほとりに半ば捕虜同然の生活を送っていたシッティング・ブルは「扇動の罪」で逮捕状をとられ、1890年12月15日に同じスー族の警官ブルヘッドに小屋に踏み込まれ身柄を拘束されました。
その時シッティング・ブルが言った有名なセリフがこれ。
「私は行かない。お前の好きにするがいい。逃げないから、早くやれ」
大戦士の覚悟に感銘を受けたインディアンたちはブルヘッドに発砲。銃弾を受けながらもブルヘッドはシッティング・ブルに銃弾を撃ち込んだ。
最後までインディアンのために戦った誇り高き男は、彼が守ろうとした同族の手により死亡したのでした。
5. ハニー・シャフト 1920-1945(オランダ)
ハニー・シャフトは第二次世界大戦中に、ドイツ占領下のオランダで共産主義の抵抗活動を行って処刑された人物。
アムステルダム大学在学中にナチスによる占領を受け、非合法の共産主義抵抗組織に参加し、オランダ共産党と連携し破壊工作や宣伝などの抵抗活動を行っていました。
ところが1945年4月17日にドイツ治安当局に逮捕され、銃殺刑となりました。
刑執行の号令が降り、2人の若いドイツ兵が銃を構え彼女を撃ちますが、緊張していたのか2発ともかすり傷を与えただけだった。
彼女はせせら笑い言った。「私ならもっと上手く撃てたわよ」。
次の瞬間、他の男が銃を放ちそれはシャフトの頭をまっすぐ撃ち抜いたのでした。
6. ブレイカー・モラント 1864-1902(オーストラリア)
ボーア戦争(南アフリカ戦争)は、オランダ系移民が南アフリカに作ったオレンジ自由国とトランスヴァール共和国が、大英帝国への吸収に抵抗し起こったもので、1880年から1902年もの長い間続きました。
大英帝国は最終的にはダイヤモンドを含む巨大な資源を有する両国を併合することに成功したのですが、大量の物資と人員を割いて疲弊し、その戦費負担は重く国民に乗しかかりました。大英帝国の一翼であるオーストラリアも本国からの強い要請で南アフリカへの出兵を命じられ、歩兵と騎兵併せて16,175人が南アフリカに赴きました。
ブレイカー・モラントは将校としてオーストラリア兵を指揮する立場にあったのですが、彼は味方が殺された報復として敵のアフリカーナーの捕虜9人とドイツ人神父を殺害したとされ、戦犯の容疑で逮捕されてしまった。
1902年2月27日にイギリス軍によって銃殺刑にされたのですが、最期に放った言葉がこれ。
" Shoot straight, you bastards! Don't make a mess of it!( まっすぐ狙えよ、クソ野郎、台無しにするなよ)"
生粋の軍人というか、一本気な男の生き様を感じる一言です。
モラントの処刑はオーストラリアのみならず本国でも物議をかもし、地元のオーストラリアではマッチョな男の生き様みたいな感じで英雄視され、1980年には「ブレイカー・モラント」というタイトルで映画化もなされ、同年のアカデミー脚色賞も受賞しています。
映画でも彼の処刑のシーンと最期のカッコイイセリフが収められています。
7. ロバート・アースキン・チルダース 1890-1922(アイルランド)
ロバート・アースキン・チルダースはアイルランドの小説家でナショナリスト。著作の「砂洲の謎」は世界初のスパイ小説として有名です。
彼は第一次世界大戦従軍後、母親の出身地アイルランドの完全独立を求めて政治活動を開始。アイルランド独立戦争では独立派がイギリスと妥協し、イギリス国王を元首とする「アイルランド自由国」を成立させました。
しかしチルダースはあくまで完全独立を求め新生アイルランド政府に対立したため、反逆罪で拘束され1922年11月に銃殺刑に処されました。
刑執行前、チルダースは刑執行人一人一人と握手を交わし、銃を構えられるとこんなジョークを飛ばしました。
"Take a step or two forward, lads. It will be easier that way (若者よ、もう一歩、二歩前へ、そこだとやりやすいぞ)"
ジョーク好きでユーモアのあったチルダースは、最期の瞬間までジョークを忘れなかったのでした。
8. ラヴィニア・フィッシャー 1793-1820(アメリカ)
ラヴィニア・フィッシャーは18世紀前半の「アメリカ初の女性殺人鬼」とされる人物。
カ宿屋を営んでいたラヴィニアと夫のジョンは、泊まりに来る客を殺害しては持ち物を奪う犯罪を繰り返していたとされています。
2人は逮捕され1年の拘留と裁判の後に処刑されたのですが、夫のジョンは処刑を前にしてビビり上がり、「私はキリストに罪の告白をしたので無罪となった」などと主張し最後まで抵抗しましたが、妻のラヴィニアは腹をくくっていたようで、絞首刑の直前に言いました。
「もし悪魔に伝言があるならいますぐ寄越しなさい。私はもうすぐ会うのだから」
殺人犯とはいえ、運命を受け入れた姿勢には清々しさがありますね。
9. チェ・ゲバラ 1928-1967(アルゼンチン)
理想を追い求めて戦い続けたチェ・ゲバラの革命と青春の物語は、ここで多くを語る必要はないでしょう。時代を越えて若者たちの心を捉えて離しません。
キューバでの革命成就後、あくまで理想的な政治姿勢を崩さなかったことで政治の中枢から外れていき、さらなる革命を求めて出国。コンゴやボリビアに活動の拠点を移し、革命を続行しました。
しかし1967年10月にボリビア政府軍に捕獲されて殺害されます。
彼の最期の言葉が何だったのかは様々な説があり、彼の伝説的な物語から尾ひれがついて語られることも多くあるようですが、一番有名なのがこれです。
すでに何発かん銃弾を体に受けたゲバラ。ボリビア人兵士は最期の一発を撃とうとしますが、相手が相手だけに恐怖で手が震えてなかなか撃てない。
ゲバラはこう言って若い兵士を励ましたとされます。
「落ち着いてよく狙え、お前はこれから一人の人間を殺すのだ」
ゲリラの英雄らしい最期です。本当にカッコイイですよね。
10. カール・マルクス 1818-1883(ドイツ)
カール・マルクスは言わずと知れた共産主義の生みの親で、19世紀を代表する思想家・哲学者・経済学者・革命家であります。
マルクスはその生涯において厖大な著作を残しましたが、中でも「共産党宣言」「資本論」は後の共産主義革命のバイブル的存在であり、今でもマルクス経済学の重要な本です。
マルクスはその激動すぎる生活で肝疾患などの病気を抱えていましたが、1881年に最愛の妻イェニーが死去したことですっかり打ちひしがれ、体だけでなく心も次第に弱っていったようです。1883年1月にさらに長女を亡くしその2ヶ月後、家の長椅子で死んでいるのが発見されました。
マルクスの葬儀は家族や身辺者などごくわずかな者だけで執り行われ、その際エンゲルスはマルクスの最期を紹介したと言われています。
3月14日、午後3時15分、偉大なる思想家は思索を止めたのだ。2分もなかったのですが、我々が彼を一人にし、再び戻ってくると彼は長椅子に座り、永遠に眠っていたのです。
マルクスの最後の言葉は、彼が家政婦から「最後に言いたいことはありますか」と尋ねられた時に言ったとされる一言。
「去れ!最後の言葉なぞ、充分思いを伝えきれなかった愚か者が言うことだ」
しょうがないので家政婦はその言葉をノートに書き取ったそうです。
カッコイイですね。未練など一つもなく、ひたすら人生を生き切った男の一言はとても重く、そしてなんと清々しいんでしょうか。
まとめ
自分の生き方に後悔や後ろめたさを持たずに、晴れ晴れとして死んでいけたら何と素晴らしいことでしょうか。
今回紹介した人たちの中には、もちろん悔しくてたまらず、やり残したことも多くあった人もいるに違いないのですが、最期までそれを出さずに生き方を貫く姿勢は本当にカッコイイものであります。
人間、いつ死ぬか分かりません。明日電車が事故にあうかもしれないし、火事で焼け死ぬかもしれない。
その瞬間が訪れた時に素直に運命を受け入れられるように、自分の生き方を貫いていたいものです。
参考サイト
"The 11 Most Badass Last Words Ever Uttered" Cracked.com
"The 9 Most Badass Last Words Ever Uttered: Part 2" Cracked.com