「子育てのコストを誰が負担するのか問題」
「子育てのコストを誰が負担するのか問題」の話として読みました。無駄に話を大きくすると、昨今の非婚化とか少子化というものは、突き詰めれば「個人主義」と「家族」のふたつがすこぶる相性が悪く、「家族」というシステムが時代に合わなくなってきたために起こっているのだと思います。
戦後、日本社会は欧米にならって「自立した個人が自由意志で人生を選択する社会」(個人主義社会)を指向し、それまであったイエや家族といった共同体のしがらみから個人が解放される方向で進んできました。大家族は核家族となり、結婚も「常識」から「個人の選択」になった。「家族」というシステムがどんどん小さく、弱体化していったのが、戦後日本の歩んできた道のりだったわけです。
この時代の流れは、家族のしがらみから個人を解放し自由をもたらしましたが、反面、それまで家族が担ってきた諸機能…子育て、介護、経済/家事の分担といったものを、家族に代わって誰が担当するのか?という問題に直面することになりました*1。
大家族では、各々が役割分担してこなすことができていた介護や子育ても、人員が少ない核家族では難しい。昨今問題視される保育園の不足なども、専業主婦として育児を担っていた母親が経済も兼任するようになり、さらに母親の代理として祖母や祖父のサポートも期待できなくなったことによる「子育ての外注需要」の増加から発生しているものでしょう。
要するに、家族の「人手不足」が起こっているわけです。家族に期待される機能はそのままに、核家族化による家族構成員の減少が進んだのですから、これは当然の帰結といえるでしょう。
子育ては絶対に家族で行わなければならないのか?
ここまでが、戦後個人主義が進み、家族が弱体化した結果として家族の「人手不足」が発生するまでの流れです。弱体化した家族が担っていた介護や子育てといった機能を、今後誰が担っていくのか?大家族を復活させるのか?老人ホームや保育園といった「外注」に任せるのか?様々な考え方があると思いますが…
そもそも私は、「個人主義」と「家族」が、根本的に相性が悪いものなのだと考えています。
「女性を男性に経済面で依存させ、男性を女性に生活面で依存させ、子育てという責任で離れられなくする」。これが家族というシステムが担う「役割分担」の本質ですが、これは「自立した個人が自由意志で人生を選択する」個人主義の思想と甚だ相性が悪い。
女性は経済面で、男性は生活面でそれぞれ自立し、ジェンダーによる役割分担が必要なくなっていけば、男も女もそもそも結婚する意味が薄くなってしまい、実際これは、非婚化の一因となっています。家族を作る意味が薄くなり、結婚する男女が減っていけば、そこからしか産まれてこない「子供」の数も減っていくのは必然といえるでしょう。
しかし本当に、子供は家族以外の場所で育ててはいけないものなのでしょうか?私は、そうは思いません。
ここから先は若干SFになってしまうのですが、たとえば、家族というシステムを廃止し、成人男女には自由にセックスをしてもらう。産まれた子供はすべて国が引き取り、専門家が専用の施設で育てることにする*2。
これにより、経済面などで子供を産むことができない場合でも、誰もが安心して子供を産むことができるようになり、少子化は解消されます。子供は産まれる親を選べない、いわゆる「毒親」問題や、産まれによる経済/文化資本の格差問題もなくなるでしょう。
「子育てのために仕事上のキャリアを泣く泣く諦めなければならない」ような悲劇も、このシステムでは発生しません。なにしろ家族が解体され、「父親」「母親」といった役割自体が存在しなくなったのですから。旧来の父親や母親の役割を自らの意思で望む人間は、子育ての専門家の道を歩めばよいでしょう。
そもそも、個人の意思を尊重する個人主義は、子育てのような「義務」や、家族のような「依存関係」とは根本的に相性が悪いのです。もし、個人主義を徹頭徹尾追求するならば、家族を解体し、子育てや介護の機能は国が引き受け、個人は自分らしく生きることにまい進する。こうした形に行き着くのは必然ではないでしょうか。
現在は、旧来の家族が解体され、個人主義に合った次世代生産システムに移行する、その過渡期なのかも知れません*3。
「おい、知ってるか?200年前の日本では、子供は産んだ人間が責任もって育てないといけなかったらしいぜ。」
「マジかよ…貧乏人やクズの下に産まれた子供とか、超かわいそうじゃん…どんだけ野蛮で非人道的な社会だったんだよ…」
23世紀の日本では、こんな会話が日常的に違和感なく繰り広げられているかも知れませんね。