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ひきこもり生存戦略

ひきこもりなど、生きづらさを抱える人であっても、生き残れる方法を模索するブログ

低消費生活三種の神器

生存戦略

以下のサイトで紹介されていた低消費生活三種の神器。

他にも、いろいろな生活のヒントが載っているので、見てみるとよいブログだと思う。

neetheaven.seesaa.net

所得税と住民税の支払いなし
国民健康保険7割減免
・年金全額免除

共産圏の環境問題

環境

環境問題には、子供のころから興味があった。

共産主義には、可能性を感じるけれど、やっぱり共産主義一党独裁は駄目だな、と思う。環境問題を隠ぺいするのは、駄目だ。

環境問題に限らず、自分への批判を封じ込めてしまう体制は、あきらかに腐っている。

それはすばらしい政治体制とは言えない。

民主主義と共産主義が手を取り合った体制というもの、見てみたいのだが……人間の顔をした社会主義という、プラハの春のころに聞かれたような政治体制、ないものだろうか。

 

第2回 イントロダクション〜ここまできた地球環境の危機

「北にエイズ感染者なし」を疑う : ウィーン発 『コンフィデンシャル』

甘い社会が欲しいんだ

哲学

まーた、働け、とか、甘えるな、とか、そういう声が聞こえてくるかなー、と思ったら、そういう声もちらほらと聞く。テレビとかでは、そっちの方が優勢なのだろうか、あまり見ないけど。

しかし、そうじゃない声もネットでちらほらと見かけて、これは、十年前のネットとは違うな、と感じた。十年前のネットは、バッシング一色だった気がするから。あくまで印象論だけど。

親は子供を放り出すべきだ、とか、甘やかしすぎだ、という声も聞かれるんだけど、うーん、ぼくはそういう「厳しい」社会は好きじゃない・・・。

もっと「甘い」社会がいい。甘い社会に住みたいし、甘い社会を作っていきたい。甘い社会って何かっていうと、困った時に他人に頼れる社会で、他人が助けてくれる社会で、ぼくも困った人を助けられる社会。みんながみんなを助けてくれる社会。それが理想なんだよなあ。

ぼくも、親と子は別の存在だと思うけど、それは思想的なことであって、経済的には、やっぱりお互いに面倒をみあうのがいいんじゃないかと思う・・・もちろん、関係性がこじれている仲の悪い家族は別だけど。そういう仲の悪い家族のために、もっと広い、拡大家族的な相互扶助組織が必要なんじゃなかろうか。

そもそも、今まで、ニートとかひきこもりとか、そういう人たちに対しては、甘えているといって、特に対策を取らなかったと思うんだけど(バッシング、すごかったよね? 覚えてる? 知らないか?)、そして若かった人たちが高齢化して今の現状があると思うんだけど、それは、この方向性が間違っているってことを示しているんじゃないだろうか。

どうしても、社会に一歩出ることができない、みたいな話は、聞いたことあるし、ぼくも経験あるし、本でいうなら、『ひきこもりの〈ゴール〉―「就労」でもなく「対人関係」でもなく』という本が、この「もやもや感」を「もやもや」のまま、うまく伝えていると思う。

もっとお互いが甘えあえる社会、を、ぼくは欲しい。

そういう甘い社会は、ぼくがぼくのままで生きられる社会だ。厳しい社会は、ぼくがぼくのままで生きることを許さない社会だ。厳しいルールに従えないなら、社会からはじきとばされてしまい、ぼくがぼくのままで生きることを許さない社会だ。そういう社会からは、本当に逃げ出したいし、大嫌いだ。だから、甘い社会がぼくは欲しいんだ。

連帯、人との会話――それと、芸術の役割

生存戦略 哲学 社会を世界を自分を変える 芸術 下書き?

人と話さなくてもいい、とぼくは考えているけれど、それは残酷な考えかもしれない。

気の合わない人とは無理につきあう必要はない、とぼくは思っている。

でも、ぼくを気にかけてくれる人でも、ぼくと気の合わない人はいる。

その人に対して、別にぼくはあなたと話さなくても全然平気だ、というのは、残酷なことを言っているような気がする。

でも、どう考えても、それが正直な気持ちなときもある。

でも、そんなこと言われたら、すごくつらいんじゃないかな、と心配だ。

ぼくは、人と話すのが嫌いじゃない。むしろ好きだ。

だけど、おしゃべりな方ではない。好きじゃない会話もある。つまり、気に入った会話なら、好き、というやつだ。

社交的になってみようか、と思ったこともあったけれど、つらいだけだった。きっと無理をしていた。なんというか、ふつうに人と話せていた時期もあったのだが、そのときは無理していなかった。そして、すごく楽しかった。人と話すのが楽しかった。無理せず話せるときが一番よいときで、無理せず話せないなら、話さないのが一番いい。やっぱり、無理はよくない。本当によくない。

話し好きか、どうか、なんて、一般的には決められない。相手によるとしか、言えない。

でも、ぼくは一人で何かするのがけっこう好きだ。

すると、連帯ってどうすればいいんだろうって思う。連帯。だれかとつながること。手を取り合うこと。協力すること。ぼくは共同作業ってあまり得意じゃない。でも、残業代ゼロ法案とか見ていると、一致団結して廃案にしなくちゃ、みたいなことを思う。一人だけだとどうやればいいかわからないから。でも、一致団結なんて、すごくうさんくさいんだ。どうやって他人とつながればいいんだろう。

この問題を解決することができれば、案外簡単に社会って変わっちゃうんじゃないか、ってぼくは、わりとマジに考えている。

芸術――物語とか絵とか音楽とか、そういうやつは、人と人とをつなぐことができるし、あまりおしゃべりが得意じゃない人、一人でも平気なぼくみたいな人にとっては、本当に力になってくれるんじゃないか、って感じている。具体的なあれこれは、まだ闇の中なのだけども。

中高年ニート・・・というよりも、社会参加の否定

哲学

中高年ニートについてのニュースがやっていた。

バッシングに似たコメントをキャスターがしていたので(おなじみの甘えているとか、信じられないとか)、すぐにチャンネルを変えたか、消したか、その場を離れた。

十年前(や、そのまたさらに前)と同じ過ちを繰り返しているのではないか。引きこもりやニート不登校が問題になったとき、同じように批判して、「できないお前が悪い」と言って、何も対策をせずに精神論でうっちゃらかして、そしてそういう人たちはただ批判するだけで何もしていない。

弱者を批判するだけで何もしないのは、暴力であると思う。

さて、そういう風に批判する人たちのこと、理解できないわけじゃない。でも、その人たちは、たぶん、不登校ニートやひきこもりの人たちのことを、あまりのもふつうの人たちだと考えすぎていると思う。学校に行けることはふつうじゃないし、現代日本の働き方に適応して働けることは別にふつうのことじゃない。こういう観点が、きっと無いんだと思う。でも、普通の事じゃないと思う。だって、現に彼らはできてない。やりたくても体や心が動かない。「つらいけどがんばれる」と「つらくてもう無理」は、似ているけど、違う。

ぼくの「できない」に対して「できるはずだ」というのはやめてくれ。

それはとてもつらい言葉だ。

だれかの「できない」に対して「できるはずだ」というのはやめてくれ。

それはだれかにとって、とてもつらい言葉だ。

あなたはわたしじゃないし、わたしはあなたじゃない。

そういうことは、もうやめにしませんか。できないを、できないまま、受け入れることは、できませんか。

 

不登校やひきこもりは、社会参加の否定、この社会への否である。

その人たちを無視しても、社会参加できている人たちは、最初はそんなに害がないでしょう。生活保護が受けられなくなって、死んでしまうのは、そういう人たち(社会参加できない人たち)でしょうから。そういう社会参加できない人たちを、社会参加できる人たちが、甘えているといって叩くのは、痛快なものかもしれません。自分が絶対に安全な立場から、反撃されるおそれがまずない相手を叩いているのですから。しかし、それには、なにかとても邪悪な、不道徳なものを、ぼくは感じます。

うまく反撃できない相手を叩くのは悪だと思うんだ。

さて、しかし――現実に、そういう働けない人たちが、大量に死に出したら、それはもう、この国がぶっ壊れているということになるんじゃないでしょうか。それでも、彼らはクズだから死んでもいい、なんていうのかなあ。もしそうなら、完全にこの国は日本人としての統一性、日本という国としての一体感というものは、なくなってしまったのだな、と思います。だって、そのときに死ぬのは、同じ日本人でしょうから。

ぼくとしては、社会に適応できない、この社会にノーをつきつけているのは、とても人間らしい行動だと思います。心から敬意を表します。それは、人間の根源的な何かが、否定の声を上げているのだと思うから。だから、この人たちを社会に取り込むために、社会のほうが変わらなければならないと思う。それができないなら、そういう人たちは、自分の命を犠牲にして、この国から、この世から去っていくでしょう。そして、残された人たちだけで、よい国が作れるとは思わないです。なぜなら、ピラミッドの一番下が崩れ去ったなら、今度、押しつぶされるのは、次の人たちだからです。そして、人の数が減ること、そして身近に人が死んでしまうということは、予想以上に、みんなにストレスをかけることだと思います。そして、そもそも――そんなにたくさん人が死ぬのは、狂っているのだと、ぼくは思うのですが。非倫理的状況、不道徳な環境だと思うのですが。どうでしょうか。何か手を打たなくては、批判や否定ではなくて、彼らが彼らのままで、生きていける仕組みを作るべきだと思うのですが。

怒ったときって、どうすればいいんだろう?

下書き? 哲学

怒ったときって、どうすればいいんだろう?

そういうことを、考える。

我慢するのは、よくない。しかし、相手の怒りに対して、反射して怒りをぶちまけるのも、よくない。

たぶん、冷静に、傷ついたとか、なにか思っていることを話せるのがいいのだと思う。

アサーション、っていうんだっけ。

でも、ぼくは頭の回転が遅いので、言いたいことがすぐに言えないの。

だから、ぼくの言葉が出る前に、怒りが発生して、そして、状況が流れ去っていき、ぼくは言葉を言うタイミングを失ってしまう。

そういう言葉を、ぼくはいくつか持っている。

どうすればいいんだろう?

文芸ジャンキーというサイトで、怒りについて話している箇所があった。以下のリンクの10月24日を参照。

最新文芸情報

お坊さんが、「それは重要ではない」ということによって、怒りを鎮めている方法なのだけど、怒りに対しては、仏教はかなり言えることがあるのでは、と思う。なにせ、三毒(仏教の教える三大悪)は、貪瞋痴であり、それぞれ、むさぼり、いかり、おろかさを意味する。怒りを整える智慧は、仏教が持っている智慧の一つではないか、とぼくは考えているが・・・。どこにその智慧はあるのだろうか?南伝大蔵経とか、そういう原典にあたるのが一番よいだろうか。

海外

海外

アジアハイウェイ、というドキュメンタリーを見た。

NHKのものだ。

ぼくは、あまりテレビを見ない。一番好きなのはNHK教育。次に好きなのは海外の旅番組。それ以外は、あまり見ない。あえて言うなら、ニュースとかドキュメンタリーとか映画とか。

トルコから、アゼルバイジャン、ジョージア(グルジア)などをめぐる旅。この前はイランが特集されていた。行ってみたい。ぼくの夢のひとつは、世界を旅することだ。ガダム・ガーという、イマーム・レザーの足型がある礼拝所、面白そうだった。テヘランから東に800KMのところにあるらしい。小学校の同級生にイラン人がいて、facebookで再会して、イランはぼくにとって身近な国のひとつだ。あと、この番組に出ていた女性(東大に留学が決まったそうだ)が、村上春樹が好きだ、と言っていたのを聞いて、びっくりした。ペルシャ語訳があるのか、日本学が専門らしいので原書を読んだのか…。もっと本の話を聞きたかったが、そういう話にならなかったのは残念だ。

でも、どういう旅をするのか、決めあぐねている。ぼくは、外国に行ったことがある。基本的に、そのすべては楽しいものだった。

しかし、ドイツに行ったとき、フランクフルトアムマイン(ドイツにはフランクフルトが二つあり、よく知られたほうがアムマイン)で、ぼくは孤独を感じた。そのとき、ぼくは一人で旅をしていて、話す人はだれもいなくて、フランクフルトアムマインの水道水はまずくて、飲むと体に毒になる気がして、飲めなかった。孤独で一人、ホテルのベッドで横になりながら、BurnettのThe Secret Gardenを読んでいた。日本で感じたことのあるあの孤独が、まさかドイツにまで追いかけてくるとは思わなかった。ということは、ぼくは、旅をすることで、だれかとつながりたいのだと思った。観光地を見ることには、あまり興味がなくて、そうじゃなくて、だれかとつながりたいのだと思った。遠く離れた土地のだれかと、ぼくは心を通わせたかった。

ぼくは、外国語に、それなりの適性があったようで、英会話を習った兄弟の中では、一番うまく英語を操ることができた。ぼくの失敗は、大学の専攻を外国語にしなかったことなのではないか、と今では思う。正直、少し後悔している。もしああしていれば、もっとよい人生があったのではないか、と。もちろん、そんなことは誰にもわからないのだが。でも、ぼくは今の人生に満足していないから、そういうことを考える。たまに。

ともかく、ぼくは英語がそれなりに話せたので、その縁もあって、留学生と交流することがあった。すごく楽しかった。お互いに「外国人」だから、お互いが「違う」ことをわかっていて、そのうえで会話ができる。これは、すごくいい。日本人同士のコミュニケーションだと、「同じ」が前提とされることが多くて、それはたまにしんどい。お互いが「違う」ことを前提とした話は、とても楽だ。楽しい。

もっと、みんな、お互いが「違う」ことを前提とした話をするようになればな、と思う。