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姿を消して敵の攻撃をかわす猿飛佐助。足首から先がないあたりに先刻まで消えてた感が表現されている
「忍術名人猿飛佐助西国漫遊記」(凝香園、博多成象堂 大正四[1915]年)

 真田一族が歴史上の武将から明治大正期の読み物のヒーローとなっていった過程を前編でご紹介した。真田一族の物語に欠かせない存在と言えば、忍術や武術の達人など多才な面々をそろえた真田の家臣たち「真田十勇士」だ。架空の存在だが、ヒーロー戦隊ものの元祖とみなす人もいる、人気のキャラクターである。

 その真田十勇士の中で、最も有名なのは猿飛佐助だろう。現代では小さく素早く猿っぽい、それでいて最強の忍者といったイメージが流通している。しかし人気があるにもかかわらず「猿飛佐助」というキャラクターを誰が成立させたのかということすら、詳しいことは分かっていない。

 これは分からないのが当然で、現代知られている猿飛佐助像が確立するまでの過程に限っても、後述するように講談速記本や初期の大衆小説、千里眼や怪力嬢まで登場するくらいに交錯している。明治大正時代というのは近世と近代がドロドロと混ざった時代で、当然ながら娯楽物語の世界もやはり混沌(こんとん)としている。そんな文化を一人の人間が全て把握するのは、まず不可能じゃないかと私は思っている。

 現代の創作物の中で猿飛佐助は空を飛ぶが、明治の猿飛佐助は空を飛ぶことはない。前編でも書いたように、明治人は合理性を求めた代償に、フィクションを楽しむ技術を失ってしまっていた。いきなり猿飛佐助が空を飛べば、クレームをつけかねない読者が数多くいた。

 江戸時代の十勇士像も現実的で、諜報(ちょうほう)活動に従事する忍びでしかなかった。物語のクライマックスでは幸村の影武者となり、5人の幸村が徳川方を追い回し、危なくなると煙とともに消えてしまう役どころだった。江戸の十勇士はあくまでも幸村の郎党で、単独行動で目覚ましい活躍をするわけではない。

 猿飛佐助や忍者たちがオオワシを呼んで背中に乗り、空中から墓石を投げ付けて徳川家康を半殺しの目に遭わせ始めるのは、大正時代に入ってからのことである。一般に猿飛佐助は、講談本を小型化した立川(たつかわ)文庫でヒーローになったと認識されているが、そこに至るまでには数知れぬ名もなき創作者たちの苦労があった。ここではその奮闘の一部と、明治大正の娯楽物語はすごいのだということを改めて紹介していきたい。

■真田一族と高齢化対策

 元々猿飛佐助は大兵肥満の武士であった。佐助と出くわした武士は

 イヨー武士だ武士だ。大きな武士に坊主だぞ。
(「真田郎党忍術名人 猿飛佐助」雪花山人、立川文明堂 大正八[1919]年)

と見た目の感想を述べている。講談速記本の設定では佐助の身長は180cm、昔の人間としてはかなりデカい。

 なぜ佐助は小さくなったのか。これを解説するため欠かすことができないのが、真田一族の高齢化問題である。

 真田幸村は明治大正時代の物語の中では、史実と異なってかなり長い間生きている。大坂の陣が終わった後は薩摩の島津家へ落ち延び、豊臣方の勇士たちを引き連れて琉球を統治したり、世をはかなんで山奥で仙人となったりしている。基本的に年をとればとるほど強くなる。前編で紹介したケースでは、幸村は天狗(てんぐ)となって姿を消し、目で動物を殺す。多少ならば空をも飛ぶ。ほぼ無敵状態だ。

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鉄の棒を振り回す三好清海入道。まだこの頃は中年である
「真田家豪傑三好清海入道」(野花散人、立川文明堂 大正三[1914]年)

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大坂の陣直前の三好清海入道。若者化している
「忍術名人猿飛佐助」(野原潮風編、榎本書店 大正六[1917]年)

 ただし真田幸村は歴史上の人物である。物語の世界であっても年月が過ぎれば年を取ってしまう。いかに天狗の幸村が無敵であろうとも、そろそろ70という年齢で江戸城に殴り込みをかけて徳川家光の首をたたき切ろうというのは、元気すぎるというものだ。

 真田十勇士の一人、僧形で18貫(約67kg)のこん棒を振り回す豪傑・三好清海入道も人気のあるキャラクターだが、江戸の物語「真田三代記」では、大坂の陣の時点で80歳を超えている。明治大正時代の物語世界における清海入道の趣味は、日本全国を漫遊して徳川侍を鉄の棒でベッキベキに殴りつけることである。80前後の老人にそんなことをさせるのは、あまりにむちゃだ。

 それでも真田十勇士たちはヒーローである。夏の陣が終わった後も活躍させたいというのが人情だ。創作者たちは苦悩の末、彼らを若返らせるという荒業に出てしまう。

 三好清海入道が若返ったことの説明は特にない。十勇士は年齢はもちろん、実在したかどうかすら曖昧(あいまい)な人々である。少しくらい若くなっても問題ないといったところなのだろう。しかし幸村の年齢ははっきりしているから、若返るわけにはいかない。それではどうするのかというと、息子や孫を出してしまうのだ。

■最強無敵「梅干しの術」

 明治から大正の物語中で真田一族最強の人物は、恐らく真田大助の息子「鳥さし胆助」だろう。現在、猿飛佐助と比べると知名度は皆無に等しい。しかし「鳥さし胆助」は、猿飛佐助の造形に大きな影響を与えている。

 鳥さし胆助は本名真田金助、真田幸村の孫である。幸村の息子・真田大助は幸村とともに琉球を統治した後、現地の娘さんと結婚し金助という子を作っていた。その金助が並外れた能力で三代将軍家光の命を狙う、という物語だ。この金助がとにかく強い。

 琉球を攻め落とした後、真田大助は天草四郎の軍師・森宗意軒として島原の乱に参加し、残念ながら討ち死にしてしまう。初っぱなから作者の妄想全開ではあるが、この時代のフィクション世界では、真田大助は幸村以上の能力を持つという設定があった。当時の読者たちは「真田大助ならこれくらいのことはしかねない」と納得していたのだろう。

 大助の死後、妻は子の金助を連れて、田舎へ落ち延びる。金助はすくすく成長し、8歳になると鳥刺で母親を養う。鳥刺というのは鳥モチを付けた竹竿(たけざお)で小鳥を取るという遊びで、これを職業にしていた人もいた。8歳の時点で十分に強く、本職の相撲取りに勝利し、刀を持った侍に竹竿で勝利している。それで肝っ玉が太いから、鳥さし胆助というニックネームが付く。

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幼い日の金助。あまり強そうではない
「慶安豪傑鞍馬大助」(蒼川生、岡本偉業館 大正三[1914]年)

 真田幸村の孫だから、鳥さしの腕前も超一流である。金助が鳥を取り過ぎた結果、近場の山から鳥がいなくなってしまう。金助は鳥を追い求め山奥にまで入り込み、偶然にも仙人と出会うと、そこで修行をすることになる。仙人の名は鞍馬僧正坊、牛若丸に極意を譲った僧正鬼一法眼の孫である。

 金助は修行の結果、36mの範囲内なら縦横自在に飛ぶことができるようになる。猿飛佐助が使える忍術ならば、全て使える。予知もできれば夜も目が見え、にらめば人を気絶させることができるし、岩すら目で壊せる。

 これだけで十分に無敵だが、さらに「梅干しの術」も使えてしまう。金助が人を梅干しの種だと思ってにらむと、その人物は梅干しの種のように無力になるという特殊能力だ。なんでもできるのが真田金助で、もはや神の領域に近づいている。

 修行を終えた金助は、江戸へと出掛ける。目的は三代将軍家光を殺し、江戸城を燃やしてしまうことである。いくら家光が武芸を好んだとはいえ、こんな化け物がやってきたら命が危ない。

 江戸に到着した金助は、知名度と人望を上げるため、かの由井正雪に武芸十八般の勝負を挑む。しかし十八般どころか二般で正雪は全身打撲となり、土下座して許しを請う。当時のフィクション世界において、由井正雪は剣豪として名高い柳生宗矩より強い。その由井正雪が土下座するくらいなのだから、金助は文句なしに強い。

 そんなこんなで金助の評判は高くなる。才気に富み「知恵伊豆」の異名をとった老中・松平伊豆守信綱は、金助のたくらみを薄々知っている。暗殺してしまいたいのだが、強すぎて手が出せない。自宅に招待し鉄砲隊で撃ち殺そうとすれば、金助は屋根に飛び上がり一瞬で瓦の城を作り上げてしまう。これでは鉄砲すら通用しない。金助が暴れると危なくて仕方ないため、伊豆守の家臣たちは懐柔策に出て酒肴(しゅこう)でもてなすと、金助は牛飲馬食しながら大声で伊豆守に聞こえるように罵倒する。

 主人の伊豆殿はなぜあのような馬鹿なのぢゃ。どのようなことをしたとて捕らえることの出来ぬ某(それがし)を捕らえようとして、駕籠(かご)を潰されたり瓦を壊されたり屋根を破られたり、ハッハッハッ、大分損せられたな。愚図愚図(ぐずぐず)していると、この屋敷も黒土になるところであった。イヤ、馬鹿というものはとかく後手に回ってせずともすむ難儀をする、ハッハッハッ。
(「豪傑小説 続鳥さし胆助」三宅青軒、大学館 明治三九[1906]年)

 怒りが収まらない伊豆守が中国拳法の達人を送り込むと、金助はハッハッハッと笑いながらボッコボコにして弟子にしてしまう。切り札として射撃と忍術の達人を使い真夜中に暗殺をしようとするも、金助は寝ながら弾丸をよけてしまう。流石の知恵伊豆もお手上げである。

 このまま金助が豊臣再興のため旗揚げしてしまったら、確実に歴史が変わってしまう。そんなわけで、家光は病死する。将軍家光が死んでしまったのでは謀反を起こす意味もないと、金助は豊臣再興をあっさり諦め、その後は平和を守るため一転徳川家の御目付役として余生を送る。めでたしめでたし、といった物語である。

 「鳥さし胆助」は明治のヒーローではあるが、今でも古臭い感じはしない。現在のゲームなどに登場したとしても、チートキャラとして活躍できるだろう。

■大衆小説をパクった講談速記本

 前編の復習になってしまうが、いま一度講談速記本について確認しておこう。

 明治の中頃まで、現代の人が親しんでいるような小説は日本にはほぼ存在しなかった。まず主人公の日常が描かれ、ある目的を達成するため冒険に巻き込まれ、目的を果たした主人公は成長した姿で日常に戻っていく……たとえばこういったストーリーを楽しむのが現代の物語である。ところが大正時代あたりまでは、ストーリー全体の展開よりも、歌舞伎の一幕見を楽しむように場面ごとの面白さを重視する人々が多かった。彼らはクライマックスなどなくても、あまり気にしなかった。

 江戸時代末期、日本で初めてドン・キホーテを読んだ人が、なんとか勧善懲悪の説話として理解しようと苦心惨憺(さんたん)したという話がある。これは当たり前のことで、人間は知らないものをすぐ理解することはできない。知っているものに当てはめながら、少しずつ理解していくより仕方ない。

 日本に存在する物語の中で、一番今の小説に似ていたのが実録や講談だ。だから講談を速記した講談速記本が、明治時代には人気を博していた。講談速記本の上で活躍していたのが、真田一族たちである。

 現在、講談速記本の功績はほとんど無視されているが、それに輪をかけて無視されているのが最初期の大衆小説である。先ほど紹介した「鳥さし胆助 豪傑小説」(三宅青軒、大学館 明治三九[1906]年)はそこで活躍したヒーローだ。それゆえに、現代ではあまり知られていない。知られていないのだが、現代の物語は「鳥さし胆助」の影響を受けている可能性がかなりある。

 ここから話は明治大正時代の混沌にぬかるんでいく。「鳥さし胆助」は当時それなりに売れたため、講談速記本の作者たちは「鳥さし胆助」を講談速記本化してしまう。なぜそんな面倒くさいことをするのかといえば、売れるからである。実はこれ以前に書き講談というのが存在した。これは講談の口演をスッ飛ばし、新聞記者や文章がうまい学生が自分で考えたストーリーを適当に書くというものだ。講談速記本という名称自体が嘘(うそ)だという適当さ加減である。そこからさらに発展し、ストーリーを考えるのもダルいし小説を書き直してゴマかすか……という粗雑で乱暴な手法が登場したというわけだ。

 弁明しておくと初期の大衆小説は、講談速記本のストーリーや文体などを参考にしまくっていた。だからお互い様だといえなくもない。さらに講談というのは、面白おかしく本を読む話芸である。だから本を講談速記本の文体に書き直すというのは、理屈として通らないわけではないのだが、どちらにしろめちゃくちゃな話で、現代なら裁判沙汰だが明治だから問題ない。

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これも立川文庫の類似書「天正豪傑 桂市兵衛」(凝香園、博多成象堂 大正一二[1923]年)

 善悪は別にして、明治三九年に出版された「鳥さし胆助」は、講談速記本「慶安豪傑鞍馬大助」として明治四一年に発売される。面白いから、もちろんそこそこ売れてしまう。さらに「慶安豪傑鞍馬大助」のダイジェスト版、「史談文庫 第五十編 慶安豪傑鞍馬大助」が大正三(1914)年に出版される。史談文庫というのは、いわゆる立川文庫の類似書で、こちらは子供向けの物語である。

 明治四〇年あたりだと、大衆小説はほんの少しだけ高級なものだった。その大衆小説を講談速記本にしてしまうことで、また異なる読者層に物語が広がっていく。さらに子供向けの物語にすることで違う年齢層にまで物語が浸透していく。より多くの人が「鳥さし胆助」を知ることとなるわけだが、これで終わらないのが明治大正時代の面白さで、「鳥さし胆助」をテンプレートに別の物語をも製造してしまうのだ。

■三郎丸、暴れる

 「真田三郎丸」(法令館編輯部編、榎本書店)では幸村には大助の他にもう一人息子がいたことになっている。その名も真田三郎丸。3歳の頃に大阪の陣のどさくさで崖に落ちて生死不明となる。

 死んだと思われた三郎丸だが、山奥で熊に育てられていた。動物と遊び暮らしていたため自然に野獣の力を持つようになる。5歳の頃には杉の大木を根本からヘシ折り、山の野獣を殴り歩く日々を送っている。その行動に理由や目的は特になく、ただの暇潰しだ。住まいの近所に忍術使いを頭領とした山賊たちがいると知ると、目障りだからと壊滅させてしまう。山賊たちが飼っていた虎も、370kgの石で圧殺する。この時、真田三郎丸はわずか8歳だが、すでに徳川天下を狙える実力を持っている。

 幸村の子供だから、ただでさえ強い。その上、山奥で仙人となった上泉伊勢守から剣術を習う。上泉伊勢守は室町末期の剣術家で、フィクションの世界では上泉に剣で勝てる人間は存在しない。剣の神様である。三郎丸の時代に生きていたとすると年齢は百を超えているのだが、仙人だから全く問題ない。

 修行をしすぎた上泉は眼力で800kgの石を90m浮遊させることができる。もちろん目で鳥も落とせるし、たいていのことはできる。そんな上泉伊勢守の元で修行をしたのだから、三郎丸も同じことができる。剣の腕前も上泉伊勢守と同等だ。

 それのみならず真田三郎丸は、猿飛佐助から忍術の極意まで伝えられる。猿飛佐助の忍術はもちろんすごい。上泉、猿飛の力を併せ持つ上に、生まれつき強い。その能力は、鳥さし胆助とほぼ同じである。

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真田三郎丸と仲間の曲渕勇三。何をしているのかは不明だが武器を振り回しているらしい
「真田三郎丸」(法令館編輯部編、榎本書店 大正六[1917]年)

 三郎丸は漫遊しながら12名の勇士を集める。メンバーには猿飛佐助や霧隠才蔵もいる。彼らの最終目的は二代将軍・徳川秀忠をたたき切り、江戸城を燃やして世直しをすることである。ただし、三郎丸は幸村の息子であるにもかかわらず細かいことは気にしない性格なので、具体的な計画などは立てない。江戸の町で暇潰しに徳川侍を殴り歩くだけである。

 当たり前だが、真田の残党12人が江戸にいていきなり殴りかかってくる、といううわさが流れ、徳川方は戦争の準備を始める。諸国大名へも通知が届き、精兵たちが江戸に集いはじめる。三郎丸たちは秀忠の命ぐらいいつでも奪えると思っているから、別に焦りもしない。だが、いかに三郎丸が強くとも徳川幕府を潰してしまうと歴史が変わってしまう。だから真田丸たちの隠れ家に知恵者の片倉小十郎がやってきて説得、和睦して物語は収束する。

 ネームバリューのある武将の息子が仙人から不思議な術を習い、徳川将軍の命を狙うも、知恵者の説得に応じる……鳥さし胆助とよく似たストーリーである。本来ならば明治の大衆小説として消えてしまうはずだった鳥さし胆助は、異なるジャンルで再利用されることによって長く愛され続けた。

     ◇     ◇

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雄竜丸は子供ながらに家康を転がしてしまう。もちろん真田の仲間である
「神風雄竜丸 隠身之術」(蒼川生、岡本偉業館 大正七[1918]年)

 これで終われば、それはそれでまとまりのいい話なのだが、キャラクターの進化はとどまるところを知らない。佐助を始めとする忍者たちの能力が異常なまでに向上し、子供が家康を風で飛ばしてしまうまでには、まだまだ長い道程が存在する。

 真田一党の物語は明治の混沌へと沈み込み、いよいよ面白くなってくる。ここで終わらせてしまうわけにはいかない。この勢いで一気に解説してしまいたいところだが、あまりに本稿が長くなりすぎた。物事には限度がある、というわけで、予定を変更して次回へとお話は続くのである。

(下)に続く

山下泰平さん

 やました・たいへい 1977年、宮崎県出身。立命館大学政策科学部卒。京都で古本屋を巡り、明治大正の娯楽物語などの研究にいそしむ。2011~13年、スタジオジブリの月刊誌「熱風」に「忘れられた物語――講談速記本の発見」を連載。