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蛇足頭脳流出 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2015-08-14

[][][]『モンスター娘のいる日常』を声優アニメとして観る前に 19:40 『モンスター娘のいる日常』を声優アニメとして観る前にを含むブックマーク

 こんばんは。以下に掲載するエッセイ「『モンスター娘のいる日常』を声優アニメとして観る前に」は、明日(2015年8月15日)のコミックマーケット88で頒布される、谷部『声ヲタグランプリ』Vol. 15に掲載されるはずだったものです(『声ヲタグランプリ』Vol. 15についての告知はこちら→http://goo.gl/DmOFzR)。

 我らが編集長から、紙幅の都合により(つまり優先順位の関係で)どうしても全文掲載することができないと言い渡されてしまったので、このままボツ・お蔵入りにするのは(個人的に)勿体無いと思い、このブログ直ちに公開することを決めました。

 というのも、仮に次の『声ヲタグランプリ』刊行のタイミングを待つとなると、それは今年の12月末となってしまい、完全に「後出し」になりかねないと思うからです。業績争いごっこをするつもりはありませんが、私にとってかけがえのない作品である『モンスター娘のいる日常』について色々なコメントがなされるのを12月末まで黙って見ているのは耐えられませんので、「鉄は熱いうちに」の精神で5,200字ちょいの本文を全文公開します。

 正直なところ、内容が内容なだけにブログでの全文公開には躊躇いがないわけではありませんが、「言いたいことがあるんだよ!」という思いを抑えきれないので、自ら晒し上げることにいたします。それでは、どうぞ。

 「モンスター娘百覧」(或いはとろとろレジスタンス)、「クロビネガ」(或いは健康クロス)、Vanadis、『コミックアンリアル』。試みに四つの単語を挙げてみたが、この時点で身体が反応した読者諸賢はこのエッセイの続きを読む必要はないかもしれない。この四つの単語は『モンスター娘のいる日常』の周囲に広がる小宇宙の性質を端的に明らかにしている。語弊を恐れずにタグ付けするならば、それは巷で「異種姦」「人外」「捕食」などと呼ばれるものである。このエッセイは、とうとう地上波放送されてしまった『モンスター娘のいる日常』の奥深さを、心ある声ヲタ諸賢に伝えるために書かれた。暫しお付き合いいただきたい。


1 オカヤドと「人外」の小宇宙

 現代史を語ることほど躊躇いを覚えることも少ないわけだが、たとえ蛮勇との謗りを受けようとも書かねばならぬこともある。まず『モンスター娘のいる日常』の原作者、オカヤドという人物について説明したい。オカヤドは2007年2月12日の夜、半角二次元板の「モンスター娘・約28匹目」スレッドに彗星のごとく現れた。「ラミアのいる日常」と題された1ページ漫画を皮切りに、オカヤドは「○○のいる日常」シリーズを断続的に掲示板へ投下するようになり、彼の作品は瞬く間に世界中の「人外」ファンを熱狂の渦に巻き込んだ。その熱狂は「隔離スレ」的なコミュニティに特有の静かな盛り上がりではあったが、オカヤドをこの小宇宙における伝説的な存在に押し上げるには充分なものであった。なお、このシリーズは2008年12月23日以来、オカヤド本人によってPixivに転載されてきたため、現在も容易に閲覧することができる。


 オカヤドの作品は当初からモンスター娘との「イチャラブ」展開を主軸にしている点で特徴的であり、異形の存在(外形的に雌型をしていても性別のない無機物をも含む)に性玩具として弄ばれたい、或いは終わりのない快楽の中で発狂させられたい、或いは種馬として徹底的に搾精されたい、或いは単に餌として捕食・消化されたいといった願望を有する過激派の「人外」ファン層にとっては生ぬるく物足りないものであったかもしれない。一つ別の例として『Girls forM』を挙げれば、主人公が身体的・精神的に壊される展開を望むか否かについてファンの間で意見の一致を見ておらず、過激派穏健派の双方に訴えかける作品を想定するのは極めて難しい現状にある。それと同様に、「人外」の小宇宙にも物語の展開や人外部位の割合などをめぐって様々な派閥があり、一つのジャンルとして単純に理解することはできない(「クロビネガ」の投稿SSの感想欄を眺めてみればよい)。要するに、この小宇宙において平均値を求めることは無意味であり、オカヤドがメイン・ストリームに位置しているのか否かは相対的な問題でしかないが、一つだけ確かなのは、この小宇宙が御し難い異常性を秘めているということなのである(異常性という用語法については後述する)。


2 「異常性」対「普遍性

 さて、『COMICリュウ』というプラットフォームのおかげか、『セントールの悩み』や『ヒトミ先生の保健室』といった作品群が順調に巻数を重ねている昨今、ともすれば「人外」的要素が市民権を得たかのように錯覚されるかもしれない。しかし、こうした錯覚は表現や趣味嗜好の異常性を隠蔽・緩和してしまい、議論の筋を悪くするおそれがある。異常性という強い言い回しに不快感を覚える人もいるだろうが、もう少しの辛抱をお願いしたい。


 「表現の自由」を論ずる際には、法の次元と倫理の次元を峻別しなければならない。例えば、コミックマーケットで受け取った紙袋に少女のあられもない肢体が描かれているという状況を想定してほしい。電車での帰り道、貴方はこの紙袋を隠して乗車するだろうか、それともこの紙袋を堂々と陳列したまま乗車するだろうか。筆者はたまに、こうした露骨な性表現は「表現の自由」によって保護されているのだからコソコソ隠す必要などない、という主張を耳にするが、この主張には法の次元と倫理の次元との混交が見られることを指摘しておきたい。昨今の表現規制問題をめぐる漫画家たちの主張にも同様の混交が散見されるが、ここで確認すべきは、ある表現が「表現の自由」によって法の次元で保護されていることと、それが倫理の次元でも普遍的に受容されることは別問題だということだ。言い換えれば、「表現の自由」とは倫理の次元では到底受容されない異常性を保護するための防壁だということになる。「表現の自由」は(一定の限界こそあれど)表現自体の異常性を問題としない点で魅力的だが、この法の次元は倫理の次元から切り離されているということを忘れてはならない。この峻別を疎かにすると、途端に表現規制問題をめぐる議論の筋が悪くなる。


 既にお分かりかもしれないが、異常性という用語はここでは普遍性対義語として使われている。そして、普遍性は倫理の次元において支配的な価値となっている。だから、世に言う異常性癖なるものは、倫理に対する宣戦布告文脈で「異常」とされるのである。ある表現に「異常」のレッテルを貼ることは、「表現の自由」の放棄などでは断じてなく、むしろ「表現の自由」を効果的に利用するための現状把握なのだ。筆者が「人外」の小宇宙に「異常」のラベリングをしたのも害意あってのことではない、ということを読者諸賢にはご理解いただきたい。


3 異常性を愛好するということ

 法の次元と倫理の次元を峻別する伝統を持つ地域では、異常性の側に立って倫理と対峙するには相当の覚悟が必要だ。何となれば、それは普遍性、すなわち全世界を敵に回すことなのだから。さて、異常性の側に立つ営みの一つが文学と呼ばれるものである。サルトル文学の性質を悪と看做したのに対して、ロラン・バルトは「エクリテュール」という概念を持ち出して作家のある種の社会的責任を説いたが、こうした悪や異常性をめぐる論戦は「普遍性」の存在を前提としている。『超訳 ニーチェの言葉』などがベストセラーになる本邦では実感がないかもしれないが、彼らは多元主義相対主義を通じて悪や異常性を隠蔽・緩和することが許されないほどの厳しい価値対立の中に身を置いていたのだ。


 法の次元と倫理の次元との混交が生じ、異常性と普遍性との境界が融解している本邦では、価値対立の中で異常性を選び取ることの重みが理解され難いのかもしれない。この点で、田山花袋が作家としての「切実な問題意識」に欠けており、悪や異常性すらも引き受ける文学の営みを「善良なる市民」のものに脱色してしまった、という福田恆存の指摘は傾聴に値する(田山花袋蒲団/重右衛門の最後』、新潮文庫版の解説を参照)。現在「人外」の小宇宙に暮らす多くの者たちも、花袋同様に「芸術家の才能なくして、芸術家に憧れる」健全な市民なのではないだろうか。


 だとすれば、「人外」ファンに改めて求められる態度は、自分の愛好するジャンルがひょっとすると倫理の次元では受容されないものなのかもしれないと反省し、その上でなお「人外」の小宇宙に居座る覚悟を固めることなのではないだろうか。「人外」が好きで何が悪い、むしろ「人外」こそがメイン・ストリームであるべきだ、「人外」ファンが大手を振って歩けるようにしろ、などと過激な主張を行う者が増えやしないかと、筆者は常々恐れている。その恐れが私にこのエッセイを書かせた動機の正体でもある。


4 筆者の遍歴

 さて、ここまで一般的な話を続けてきたが、上から目線の説教がしたいわけでは毛頭ないので、ここで筆者自身が「人外」の小宇宙に辿り着くまでの経緯を披瀝することにしたい。筆者の本格的な性の目覚めは、小学校高学年の時に「Kekeo’s Ballbusting World」というサイトに出逢ったことに起因する。そこで「Pussy Envy」の翻訳を一気に読んだ時の衝撃は今でも忘れない。性の目覚めといっても、解放としての自慰を覚えたのは高校二年生の時だったので、筆者は解放以前にかなり長い貯蓄の期間を過ごしたわけだが、その間に「急所蹴りの美学」、「ヌギスタ学園」、「Girl Beats Boy」、「サキュバスの巣」、「アマゾネスの宴」などを経て、とうとう冒頭でも書いた「モンスター娘百覧」に到達したのだった。簡潔に言えば、筆者は「金蹴り」から被虐の世界に入門し、少しずつ位相の異なる被虐属性へと誘われながら、妖女・モンスター娘に犯されるという世界に迷い込んだというわけだ。だから筆者にとって、モンスター娘との「イチャラブ」展開や、モンスター娘の主食は人間男性の「精」であるとかモンスター娘は人間男性を傷つけないとかいった設定は全て「後付」に思われた、ということを告白しなければならない。何となれば、筆者にとっての「人外」の小宇宙とは、被虐の小宇宙の一部をなしていたのだから。


 中学一年生の時に「ヌギスタ学園」を無邪気に同級生に勧めてドン引きされて以来、この手の趣味は「隠して」生きていかなければならないのだという意識が、筆者の中には燻っている。成長過程で多くの同級生が興味を抱いた性表現に全く昂ぶりを感じない、というある種の不感症の体験が筆者を後ろめたい気持ちにさせる。そして、テクストサイト偏重の体験が、画像よりも文章表現に興奮するという筆者を形成することにもなった。筆者は「人外」の小宇宙に閉じ籠もって、趣味嗜好について語り合う相手を持たないまま数年を過ごしたのである。そんな筆者にとって、オカヤドがいつの間にか商業デビューを果たし、「人外」ジャンルが少しずつ普及し始めた様子はあまりに眩しく映った。だがそれは「故郷に錦を飾ってくれた」という喜ばしい感情ではなく、むしろ「このジャンルがスケープゴートにされるのではないか」という警戒感を伴っていたのである。


5 異常性は声優によって隠蔽されるのか?

 『モンスター娘のいる日常』がアニメ化され、さらに地上波で放送されているという事実が、どれだけ筆者にとって信じがたいことであるか、少しでも読者諸賢に伝わったのなら幸いである。最後に残る問題は、オカヤドの描いたキャラクターたちが女性声優の声で喋り出すということだ。そう、アニメ化によって異常性は声優性を帯びて現前することになる。


 声優が役柄や作品の宿す思想に溺れてしまう可能性、ならびに声ヲタ声優を「悪影響」から防衛することの不可能性については、これまで幾度も述べてきたので敢えて繰り返すことはしない。ここで新たに問題にしたいのはキャスティングである。『モンスター娘のいる日常』のキャストを眺めてみると、ミーア役に雨宮天、パピ役に小澤亜李、マナコ役に麻倉もも、ティオ役に久保ユリカなど、ピンチケが好みそうな(偏見)今をときめく女性声優を揃えてきたなという感じであり、11月15日に日比谷公会堂で開催されるイベントが「作品ファン感謝祭」として機能するのかどうかについては不安が残る。


 とはいえ、セレア役に相川奈都姫、スー役に野村真悠華と新人を配する一方で、墨須役に小林ゆうゾンビーナ役に持月玲依を配するなど、当世風でありながら渋さも感じさせる面白いフォーメーションになっていることは疑いえない。さらに、メロ役には山崎はるかを登用しており、日ナレメソッドによってロイヤル感に説得力を持たせようとするなど、一々面白いフックが取り付けられていて、「声優アニメ」として間違いなくよくできている。とりあえずこのくらいにして、詳細なリヴューは『声ヲタグランプリ』16号の担当者に譲ることにしよう。


 最後に問いたいのは、今をときめく女性声優の魔力によって、縷々述べてきた異常性が隠蔽されるのかということだ。2013年のポケモン映画神速のゲノセクト』で、水ゲノセクト諸星すみれの声で話し始め、涙を流したとき、貴方は「このゲノセクトならいける」と思っただろうか、それとも「却ってゲノセクトのグロテスクな形状を際立たせただけだ」と思っただろうか。いずれにせよ、異形の存在が女性声優の声を発したとしても、それが異形の表象であることには変わりはない。同様のことが『モンスター娘のいる日常』にも当てはまる。つまり、仮に異常性が隠蔽されたと感じるとすれば、それは声優の力によって実際に隠蔽されたのではなく、声ヲタがそう解釈しただけだということになる。それぞれの声優普遍性と異常性とのせめぎあいを自覚しているかどうかは分からない。しかし、声ヲタが異常性に対する意識改革を遂げることはできる。普遍性と異常性との鋭い緊張関係を自覚した声ヲタは、異常性に対して甘い態度を示してしまう人々よりも遙かに深く『モンスター娘のいる日常』を味わうことができるはずだ。


 さて、タイトルに立ち返ろう。『モンスター娘のいる日常』を声優アニメとして観る前に、何が奨励されるのか。ここまで辛抱強くお読みいただいた読者諸賢にはもうお分かりだろうから、敢えて多言は弄すまい。このエッセイが皆様に「人外」の小宇宙への扉を開くきっかけになれば、筆者にとっては望外の喜びである。