無欲こそが恐れを超える(Yogasūtra1.15)

योगसूत्रम्SangamB無欲の心境とは、経験や知識に対する執らわれがなく、自分こそがそれらの支配者であると自覚することである。

ヨーガ行者、強烈かっこいいです〜! 😆  着いていきたい〜! というか、もう着いていってます! 誰がこんなことを言えますか? 心が本当に強い人だけです。「恐れ知らずは放棄のみ」と、ヨーガ行者の雄スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは言いました。無欲の心境、放棄の精神——何も失うものがない人だけが、恐れを超えることができるのです。

私たちの経験には限界があります。まだ見ぬものがあって恐怖します。それで何とかその限界を広げようとしますが、それでも、いくら経験を積んでも、どこまでいっても限界はあるのです。知らないこと、分からないことがあります。

もし本当に何かを、誰かのことを分かりたいと思えば、自分の思いは棄てなければなりません。自分の経験にこだわっていては、それ以上進めないのです。

世間的には、「苦しみを経験した人だけが、ひとの苦しみが分かる。ひとに優しくできる」といいます。しかし僕は、自身ではまったく苦しみを経験していないのに、最も他人の苦しみが分かる人に出会いました。相手の本質だけを見て、誰よりも優しく接することができる人に出会いました。その人はヨーガ行者でした。

僕はまるで、イエス=キリストがガリラヤ湖のほとりで漁師たちに「来たれ!」と呼びかけた、その一言に応じて、仕事も家族も残して従ったゼベダイの子たちのような気持ちでした。

ある日突然現れたその人を、僕は数千年に一度しか現れないキリストだと見抜くことができただろうか? そしてその数千年に比べたら、ほんの一瞬にすぎない自分の人生を、小さなものだと分かっているこの生活を、彼らのように躊躇なく後にすることができるだろうか? それとは逆に、目の前のことに執らわれて、ことの大事を見誤ってしまうのだろうか? そんな世紀の大決断を迫られ、自分の真の価値を計られているような気分でした。

現実的には学校も仕事も辞めることはなく、今も一社会人として生活しています。でも彼らと同じように、そしてスワーミー・ヴィヴェーカーナンダと同じように、心の部分では、大いなる決心と放棄の念をもってきたつもりです。

今から振り返れば、僕は自分の前に現れたイエスに従い、強烈かっこいいヨーガ行者に着いてきました。それは人の心が恐怖するほどの放棄かもしれないけれど、実は心の限界を棄てて、限られた経験と知識を超えて、無限へとひらけていく門だったと思います。入門とはよくいったものですね。執らわれが生み出す、まだ見ぬものへの恐怖を超えて、扉を叩こう。「求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん」とあの人も言いましたよ。僕とあなたは違うかもしれない。あなた自身の自由を探してください。