アニメーションとオタク的主体の欲望の問題系――魔法少女まどか☆マギカ劇場版 叛逆の物語について

まどマギ劇場版の『叛逆の物語』というのは、その物語構造やモチーフにおいて、極めて宗教的です。そのことは、冒頭のほむらのモノローグにおいて「輪廻」「解脱」といった言葉が出てくることや、彼女が悪魔化する際に曼珠沙華彼岸花が使用されていることなどからも用意に理解できます。

本作のキャラクター配置がどのようになっているかと言えば、神としてのまどか、悪魔としてのほむら、天使としてのさやかがいる、という構造です。神まどか、これを便宜的にメタレベルまどかと呼ぶことにしますが、このメタレベルまどかは、自身の使徒としてさやかを、魔女化して自らの結界に内閉しているほむらのもとへと派遣します。同時に自身の化身として記憶を失ったオブジェクトレベルまどかもほむらの夢の中に入っています。

ほむらの夢はフロイト的な図式のもと構築されています。これは端的に言って快感原則に支配され、それに反するものはフィルタリングされ、彼女にとって温和な、ユートピア的な表象として存在します。この夢の内部での敵はナイトメアと呼ばれています。悪夢です。

しかしこの夢、言ってみれば『うる星やつら』の劇場版であるところの『ビューティフル・ドリーマー』の現代版のようなそれは、押井守がそうしたように、その外部を求めます。押井においても虚淵においてもそれはおそらく消費社会が見せる夢なのでしょう。そして消費社会の夢に埋没することへの批判的な態度とはすなわちオタクへの批判を意味します。

例えば虚淵玄の『沙耶の唄』は、三次元がグロテスクに見え違和をいだき二次元にこそリアリティを見出す主体の話として読解することができます。しかし、押井守虚淵玄の差異は、そこでオタクを無碍に否定していまうかそうでないかにあります。『沙耶の唄』のバッドエンドにおいて主人公は精神病院へ行きます。これは社会への適応を志向するルートです。しかしそこには大きな損失の感傷と悲哀があります。そしてグッドエンドはカスタマーから純愛と評されています。私の考えではこの作品は評論家の本田透が『電波男』において論述してみせたオタク的な脳内革命の物語です。

叛逆の物語においてもオタク的な欲望はある種の仕方においては肯定されます。それについては後述しましょう。

自分がなんらかの閉鎖空間にいること、このうる星やつらから涼宮ハルヒシリーズまで続くモチーフ、それに気づいたほむらはそれを「虚偽」として脱出しようとします。しかし、それを生み出しているのが自分の欲望にほかならないことに気づきます。これは宮﨑駿や押井守におけるオタク批判を一歩進めた議論かもしれません。もちろん彼らも自覚的ではありますが、例えば庵野秀明が『新世紀エヴァンゲリオン』の劇場版EOEにおいて行ったことは、オタク自身の欲望によって生まれたGAINAXがそれを残酷なまでに自己批判しながらオーディエンスに見せつけオーディエンスにも内省を強いた、というものです。

虚淵が行ったこともまた、「オタク自身の欲望が生み出した幻想」というリビドー経済の往還に自覚的です。つまりほむらはラストにおいて、まどかをあたかもフィギュアを愛でるかのように愛するのです。彼女の「これが愛よ」というセリフが恐ろしくデモーニッシュであるのは、メタレベルまどかがそのような仕方で客体化され、その神性が毀損され、オブジェクトレベルに引き下げられているからです。これは現代のアクチュアルな問題で言えば、イスラーム国についてのクソコラを作り続けるオタクと同型です。

ほむらの心理的なプロセスは一定はグノーシス主義の神話と似ています。すなわちこの宇宙は偽なる宇宙であり、悪しき神によって作られたものです。このことへの「気付き」を「グノーシス」と言います。そのグノーシスが善き神へと主体を導きます。

ほむらの場合は、夢の世界が偽なる宇宙に該当します。実際日本のサブカルチャーにおいて、爛熟した消費社会はしばしばグノーシス主義と相性良くえがかれてきました。とりわけ九十年代の黙示録的な空気感、楽曲で言えば鬼束ちひろの『月光』のような世界観です。

その偽なる宇宙を統括している悪しき神はデミウルゴスと言われます。グノーシス主義においては気付きは善なるものへの端緒です。ニューエイジと呼ばれるヒッピー的なカルチャーにおいてもそれは継承されており、それが日本のサブカルチャーにおいては『機動戦士ガンダム』のニュータイプに対応しています。しかし、叛逆の物語においては、そうしたものへの批判も兼ねてか、悪なるものは自分自身だったと転倒されます。これは永井豪の『デビルマン』のような事態です。前述の庵野秀明もまたこの作品の影響を受けた人間の一人です。

つまり、悪とは人間自身であり、それへの気付きはエヴァのような自己嫌悪を生むか、あるいはその最終話におけるような無理筋な開き直りめいた自己啓発になるか、そういった理路となります。ほむらは自らを悪魔と名指しながら半ば開き直っています。これは前述のオタクの問題系にコネクトするならば、オタクであること、マーケットがあること、それが人間の本性としてのリビドーの構造上、仕方のないこと、そうしたことがえがかれているわけです。

まどかは円環の理というシステムを、ネオリベラリズム的なマーケットのアーキテクチュアをハッキングするような仕方で構築し、無数のメンヘラを救いましたが、しかし、人間主体はどう足掻こうとその精神の構造上、力動的なエネルギーの流れにおいて、ある種のメンヘラリティを内在させないではおかないということ。そうした人間の深部への本質的な洞察と諦念、つまり虚淵玄という作家の深いペシミズムを、私たちはそこに見て取ることができるでしょう。