1945年8月15日、焼け跡から日本の戦後は始まった。試練を乗り越え、かつて若かった日本も、今は成熟した大人となった。「Since1945」では、わが国のこれからに思いを巡らせながら戦後の歩みを振り返る。
64年10月1日午前6時、東京駅に新設された19番線ホーム。アイボリーホワイトとブルーのツートンカラーの新型列車「ひかり1号」(12両編成)は、見送り客や国鉄関係者の拍手のなか、新大阪駅に向けて走り出した。
アジアで初めて開催される東京オリンピックの開幕まであと9日。50年代に始まった高度経済成長の最中、新幹線のほかにも阪神高速道路(6月)、羽田空港-浜松町を結ぶモノレール(9月)などの交通インフラが次々と完成。東京タワー完成から既に6年。東京、そして日本は「経済大国」に向けて姿を変えつつあった。
東京駅での「ひかり1号」発車前のセレモニーには、国鉄の石田礼助総裁、東京、大阪の両知事らが出席。この日のために作曲された「超特急行進曲」が演奏され、ハトが放たれ、花火が打ち上げられた。
新幹線の東京-新大阪間の515キロが全通したのは1964年7月。着工以来5年3カ月。当初は1725億円と見積もられていた総工費は、用地費や賃金、資材費の高騰などで最終的に約3800億円に跳ね上がっている。
「ひかり」は新大阪まで4時間。当初想定していた「3時間」は安全確保の観点からお預けとなったが、従来の特急に比べて2時間半短縮された。
客車は1等と2等があり、超特急の「ひかり」の料金(運賃と特急料金)は東京から新大阪まで1等が5030円、2等2480円。2等料金は当時の大卒初任給(2万円程度)の約10分の1だった。在来線に比べると、やはり割高だった。
先頭の1号車(2等)の最前列の左窓ぎわの席に座っていたのは、当時流行していたアイビースタイルの上着を着た横浜市の22歳の青年。初乗りの切符を求めて3晩も並んだ。週刊誌「サンデー毎日」の取材に「(9月)24日東京駅売り出しだったんで、3日前の午後から出札所の前にがんばったんです。スリーピング・バッグとにぎりめし持参でね」と答えている。
2等車の小学生の息子2人を連れた父親。「子供らが今日、学校が休み(東京都民の日)で、ぜひ新幹線に乗りたいっていうんでね。日帰りで京都の親類へ遊びに行くんです。乗り心地は結構ですな。ただどうもどこを走っているのかよくわからなくて」
初日は記念乗車組も多かったようだ。先頭車両と2両目まではほぼ満員だが、後ろの車両にいくと空席も目立ちだした。当時の資料によると、この日の「ひかり1号」の乗車率(国鉄調べ)は1等60%、2等85%だったという。
ただ、カウンター席で軽食を供するビュッフェは「ラッシュ時の満員電車」のよう。「ひかり1号」に40人分用意された朝定食は、1時間もたたずに売り切れた。
開業時の首相は池田勇人氏。「忍耐と寛容」「所得倍増計画」を掲げ、成長路線を加速させた。
石田総裁は開業日、「東京-大阪間はこれで非常に近くなり、輸送力も倍増され、産業におよぼす効果は大きい。今後はさらに岡山、広島、北九州へと延ばし、新幹線の効果をいっそう発揮するようにしなければならない。また将来、東北方面への延長も考えることになろう」と新幹線の将来を示す談話を発表した。
東京五輪に合わせて開業した新幹線だが、振り返ってみると、「オリンピックに伴う需要は予想ほどではなかった。テレビ観戦のため観光等の人手が少なく、ビジネス客の動きも低調、期待された外国人の利用も今ひとつで、近距離の試乗客でにぎわった程度であった」(須田寛著「東海道新幹線50年」)。だが、その後、新幹線の輸送量は、国鉄の試算を大幅に上回るペースで増加していく。
最高時速210キロ。東京-新大阪間を開業時、4時間(翌年に3時間10分に短縮)で結んだ東海道新幹線。当時最速だったフランス国鉄の「ミストラル」、ドイツ連邦鉄道の「ラインゴルト」の時速160キロを大幅に上回った。
新幹線には国産の最新技術が盛り込まれた。運転士に代わって信号の確認と速度の制御をコンピューターで調節する「自動列車制御装置(ATC)」や、列車運行を総合指令所で集中管理する「列車集中制御装置(CTC)」。いずれも国鉄初の技術だった。
超特急のベースになったのは日中戦争の最中、軍事輸送力増強のために計画された東京-下関(山口県)間の「弾丸列車」。東京-大阪間を4時間30分で結び、下関からは朝鮮海峡に海底トンネルを掘り、アジア大陸鉄道と一貫輸送ルートを確保するという途方もない構想だった。1941年に着工、新丹那トンネルなどで工事が始まったが、戦況の悪化で中止に追い込まれていた。
弾丸列車は、日本の列車が狭軌(1067ミリ)のレール間隔だったのに対し、世界で広く使われ安定性が高い広軌(1435ミリ)で設計された。新幹線でも十河(そごう)信二国鉄総裁が反対を押し切って広軌案を主張、採用された。43年まで大連-ハルビン間を結んでいた南満州鉄道(満鉄)の特急「あじあ号」も広軌で、十河氏は満鉄の理事だった。
富士山を背に疾走する「夢の超特急」。この構図は、東海道新幹線が開業時の「0系」から新型車両に変わっても親しまれ続けている。
新幹線はなぜ、高度経済成長期にあった当時の日本人の心情に、これほど大きなインパクトを与えたのか。藤井聡・京大教授らは東海道新幹線に関する共同論文の中で、国鉄の十河信二総裁や篠原武司・鉄道技術研究所長らが公開講演会などを通して「世界一の列車」を掲げ、国民の関心を喚起していく様子を解き明かしている。
新幹線を「世界最高の技術水準による最も近代的な交通機関」として実現を目指した十河総裁らの方針は、新聞やテレビを通じて好意的に受け取られ、当時の国民意識を象徴する「ナショナル・シンボル」となっていく。
「国民は新幹線計画が『東海道の輸送難を解消し、公共の利益を高めてくれるか』よりも、『ナショナル・アイデンティティーを確立してくれるか』という点に主眼を置いていた。(中略)国民の心に潜在しているスピードアップを望む感情であった」(梶原大督、中野剛志、藤井聡「土木計画におけるナショナリズムの役割に関する研究-東海道新幹線を事例として-」)。
開業した1964年は敗戦から約20年。人々の意識には、親兄弟、身近な人を亡くした戦争のつらい記憶は深く残る。一方で、高度経済成長は50年代から始まり、白黒テレビ、電気洗濯機などの家電製品が急速に普及を始め、国民の関心は消費に向かい、意識やライフスタイルが変わりはじめていた。
新幹線がナショナル・シンボルとなった理由について、藤井教授はこう語る。「技術力で世界の先進国に勝った。敗戦で日本人はもうダメだな、という気持ちがあった中で、ひょっとしたら我々はそんなにダメな存在じゃなかったと思わせてくれたのではないか」
オリンピックがやってきて、東海道新幹線が走った1964年の東京。変わっていく首都を、路地裏で遊んでいた子供たちはどう見ていたのだろう。昭和の文化に詳しい56年生まれのコラムニストの泉麻人さんに、あの年の時代の空気を聞いた。【聞き手・荒木功/デジタル報道センター】
1964年は、敗戦国の日本にとって特別な年だった。オリンピックに向けて交通のインフラ、観光客を迎えるホテルの整備が進み、東京が大きく姿を変えていく起点となった。暮らしぶりも変わっていった。
4月には海外旅行が1人1回年間500ドル以内で自由化された。海外の流行や文化が日本人の意識やファッションを変えていく。男性向け週刊誌「平凡パンチ」も発刊され、若者たちが街に遊びに出て行く。また、高度経済成長期には女性の社会進出も進んだ。一方で、通勤ラッシュや受験地獄などが問題化したのもこの頃からだ。
日本は五輪後の短い不況を経て、65年から長期の「いざなぎ景気」に突入。新・三種の神器(カラーテレビ、カー=車、クーラー)が本格普及し、世界第2位の経済大国に変容していく。
オリンピック開会日当日。皇居前からの最後の聖火リレー。国立競技場前で最終走者の坂井義則さんにトーチが手渡された。赤坂見附交差点付近を競技場に向かう聖火=東京都港区赤坂の青山通りで
東京・銀座みゆき通りにたむろする若者たち。女性は麻や紙の大きな袋、リボンつきロングスカート、三角折りハンカチーフといった格好、男性はアイビーファッションなどで通りをぶらつき、「みゆき族」と呼ばれた
東京都内の百貨店の屋上ステージなどで水着のファッションショーが人気に。この年、米国人デザイナーのルディ・ガーンライヒが発表したトップレス水着が話題になったが、日本では流行しなかった
9月26日 晴海で開かれた東京モーターショー。モータリゼーションの時代はこれからで、スポーツカーや新型車は人々のあこがれ。マツダはロータリーエンジン搭載の実車を初展示、67年には「コスモスポーツ」として発売した
オリンピックの標語「世界は一つ」がつけられたチョコレートの広告塔。日本中がオリンピック一色になり、銀座には「世界は一つ」「東京オリンピック」の電飾と日の丸が付いた巨大な地球儀が輝いた
大学の入試が迫り、受講生で超満員となった予備校の教室。良い大学、良い会社を目指す「受験戦争」が過熱していく。女優の吉永小百合さんがこの年の大学入学資格検定を受験し、翌年、早稲田大学に入学。学生たちの大きな話題に
五輪開会を前に、海外からの観客を乗せて横浜港に入港する客船。日本の経済成長を見てもらう好機だったが、オリンピックで訪日した外国人は期待された10万人に届かず5万662人。そのうち1万316人が船旅だった=横浜港で10月
3月、国立競技場前の広場となるため取り壊される住宅。オリンピックに向け、東京都内では道路やビルの建設計画などに合わせて古い街並みや家屋が次々に姿を消していった
東京オリンピック直前に開通した首都高速の浜崎橋付近は、高速道路相互のインターチェンジとしては日本初の高架式だった。東京モノレールとの立体交差も、ここならではの風景=撮影は11月3日
6月1日、東海道新幹線の開業前に開店した東京駅八重洲口の地下名店街。オープン直後のあわただしい様子がうかがえる。この第1期開業で、それまで八重洲に68店あった店舗のうち54店が地下に移った
海外からのオリンピック観客の宿泊に備え、東京都内のホテルでは受け入れ準備に余念がなかった。写真は飛行機の発着が間近に見える羽田東急ホテルの「グリル・キャプテン」。9月にはホテルニューオータニ、東京プリンスホテルも五輪に向け開業した
新宿駅のラッシュアワー。戦場のような混雑が大きな社会問題に。ドアに入りきらない乗客を電車から引き離す職員を、当時「はぎ取り部隊」と呼んだという。国鉄の石田礼助総裁も早急に通勤輸送対策をたてるよう指示した
「民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開する」--。1972年に田中角栄通産相が公表した「日本列島改造論」。工業再配置と全国の交通網整備をテコに、人・モノ・カネの流れを都市から地方に向かわせると提唱した。
新幹線開業から8年。高度成長が続いた半面、都市の過密、インフレ、公害、地方の衰退など「繁栄の中の矛盾」が意識されていた。新幹線網と高速道路の延伸で人口の地方分散を掲げる改造論には「日本列島の主要地域を一日行動圏にする」と書かれている。
山陽新幹線は同年3月に岡山、75年に博多まで伸びた。東北、上越新幹線の建設も進んでいた。ただ、73年には第1次石油危機が起こり、新幹線延伸の機運は鈍っていく。赤字に苦しむ国鉄は経営再建の議論に向かっていった。
東海道新幹線が開業した1964年の国内総生産(GDP、名目)は30兆3148億円だった。平均9%以上の実質成長を経て9年後の73年には115兆4437億円と3ケタに到達し、97年に523兆1983億円と64年比で17倍という成長を遂げた。経済低迷やデフレの影響などで後退と足踏みを繰り返し、2013年は471兆5076億円となっている。
新幹線の50年とともに経済大国の地位を確立した日本だが、経済・社会の環境は当時と大きく違う。人口減と少子高齢化の到来だ。65年の国勢調査に見る日本の人口は9827万人。67年に1億人を超え、その後も増え続けたが、総務省の調査(単年)では08年の1億2808万人をピークに人口は減少に転じている。
国勢調査の年代3区分の推移を見ると、65年、15歳未満の年少人口は25.7%を占めていた。65歳以上の老年人口(高齢者)はわずか6.3%。当時の日本という国がいかに「若者」だったかを示している。高齢者は85年に10%、05年には20%を超え、10年には23%まで上昇する一方で年少人口は13.2%まで低下した。
今年9月の総務省の人口推計では、14年の65歳以上の高齢者の割合は25.9%。4人に1人が高齢者となっている。国立社会保障・人口問題研究所の将来推計では、高齢者は東京オリンピック後の25年に30%を突破し、35年には「3人に1人が65歳以上」になる。
加速する社会の成熟化。交通インフラの整備や大型イベント誘致が投資や消費を刺激する経済効果も、1964年と比べて限定的といえそうだ。その中で期待されているのが、近年急伸している日本を訪れる外国人客だ。新幹線が初めて走った年に35万人だった外国人客の数は77年に100万人を超え、アジア各国で海外旅行が普及してきたことを背景に2000年代半ばから大きく伸びて13年に1000万人を突破した。列島に広がる新幹線網やリニアが運ぶ「超特急のこの先の夢」は、こうした訪問者と共有できるように描いていく必要があるだろう。
リニア中央新幹線は建設認可の決定を待ち、2014年内にも着工される見通しだ。東海道新幹線の成功を受け、国鉄が1970年にリニアモーターカー方式による第2東海道新幹線構想を打ち出し、73年に全国新幹線鉄道整備法に基づく新幹線鉄道の基本計画に中央新幹線が盛り込まれた。「中央新幹線はリニアで」との流れとなり、以来、実に40年余の月日を経て実現に動き出す。
計画では直線的なルートで最高速度500キロを超え、27年に品川から名古屋まで最速40分で、45年までに大阪まで延伸されると67分で結ぶ新たな日本の「大動脈」となる。
JR東海は名古屋までの総工費約5兆円を全額自社で負担して建設すると表明し、13年9月には品川-名古屋間に神奈川県相模原市、甲府市、長野県飯田市、岐阜県中津川市の四つの中間駅を置くルートを公表した。
56年ぶりに東京で開かれる20年のオリンピックに向けて、リニアのターミナル駅となる品川の周辺が再開発の中心となる見通しだ。JR東日本は東京貨物ターミナル駅と空港を結ぶアクセス新線を整備して新宿-羽田間のアクセスを向上させるとともに、品川-田町間に新駅を設置する計画を進めている。また、今年オープンした「虎ノ門ヒルズ」の近くに地下鉄日比谷線の新駅をつくる構想や、東京モノレールを東京駅まで延伸させる案が浮上しており、注目が集まっている。
高度経済成長時代に東海道新幹線が開業して50年。日本経済は、石油危機、バブルとその後の長期低迷など、さまざまな顔を見せた。成熟社会となった日本にとっての新幹線の意味は何か。地域の実情に詳しく「デフレの正体」「里山資本主義」などの著書がある藻谷浩介さんに話を聞いた。【聞き手・尾村洋介/デジタル報道センター】