追加の普請 慌てた大名も
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名古屋城の石垣は20人の西国大名によって築かれたことは2025年1月30日付などの紙面で紹介してきた。ただ、大名たちがいつ、どのような経緯をたどって参画したのかは詳しく検討されていなかった。
尾張藩にはその経過を示す史料がほとんど残されていないためだ。その実態に迫るため、名古屋城調査研究センターの堀内亮介学芸員(36)は数年前、各地に残されている大名家の史料の調査・分析に着手した。その結果、新たな経過が見えてきたのだった。
当時、天下を治めた徳川家康の存在は各地の大名にとって絶対的な存在だった。家康は大名を動員して、江戸城、駿府城、丹波篠山城、名古屋城、丹波亀山城など、次々と修築や築城を命じていった。
名古屋城の場合、1609年(慶長14年)11月、家康の家臣による区画割りが行われると、家康は1610年(慶長15年)正月(1月)、諸大名に築城を命じた。しかし、調査・分析の結果、20人の西国大名に対する動員時期は、異なることが明らかになった。
1月に動員をかけたのは北国・九州の大名が対象だった。中国・四国の大名は1609年の丹波篠山城の築城に参加していたことを踏まえて、当初は免除される方針だったという。ところが、追加動員するとの方針変更があり、2か月後にその命令が下された。方針変更の背景には北国・九州の大名だけでは負担が大きくなりすぎることや、築城期間が長期になることを避けたかったことがあるとみられる。
大名間で情報網の差が出ていたこともわかった。
浅野幸長(紀伊・和歌山)は幕府関係者から、1か月前に築城の情報を得て、義兄にあたる池田輝政(播磨・姫路)と事前準備を進めていた。これに対して、事前情報を得ていなかった山内忠義(土佐・高知)は、陸路と海路の2経路で土佐まで書状を送り、家臣団をすぐ名古屋に派遣するよう指示を出していた記録が残る。「今度御普請おくれ候而してハ我等事なにとも迷惑ニ候(今度の築城に遅れた場合は、山内家にとって非常に困る)」などと文面からは遅延を恐れる姿が伝わってくる。
一方、毛利秀就(長門・萩)は動員命令後、築城の技術がある家臣を石丁場に派遣し、確保に成功するなどスムーズに対応する大名もいた。
堀内さんは「普請の情報は家康側近たちの機密事項でもあった。大名の交友関係の広さの差が直接、情報収集の差にもつながっていたとみられる」と話す。
大名たちはそれでも課せられた任務を必死に果たそうとしていた。しかし難題は続く。名古屋城周辺には適当な石丁場が見当たらず、石材調達は難航した。次回はその調達方法について考察してみる。