「看護師の経験がある姉が住民に毒を注射して死なせた」…沖縄戦で集団自決追い込まれた「チビチリガマ」
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太平洋戦争末期の沖縄戦で、住民約80人が「集団自決」に追い込まれた自然
6割は18歳以下
米軍が沖縄本島に上陸した翌日の1945年4月2日、上陸地から約800メートルのガマには住民約140人が身を寄せていた。捕虜になることを恐れた住民は、米軍の投降の求めに応じなかった。ガマ内では、親が我が子を刃物で切りつけるなどして自決を図った。その結果、亡くなったのは約80人に上り、うち6割は18歳以下だった。
遺族や生存者はその心の傷の深さなどから口を閉ざしていたが、戦後40年近くたった頃、地元でスーパーを経営していた知花昌一さん(76)らの聞き取り調査でその詳細が明らかになった。
悲劇の象徴となる像「前に進む力に」
悲劇を伝え残さなければ――。知花さんは、平和をテーマにした芸術活動に大阪で取り組んでいた県出身の彫刻家・金城実さん(86)(読谷村)に伝承していく象徴となる作品の制作を打診した。
金城さんは「遺族にとっては思い出すのもつらい。形として残すことはできない」と断ったが、制作について同意する遺族の署名を携えて再訪した知花さんの思いに打たれ、引き受けた。遺族や生存者と取り組むと決め、一緒に制作を進めた。
「看護師の経験がある姉が住民に毒を注射して死なせ、罪悪感に押し潰されそう」「生き残った後ろめたさで遺族に会うのが怖い」――。遺族や生存者は閉ざしていた心の内を金城さんに語り始めた。金城さんは「心が通っていくのを感じた」と振り返る。ある女性は、集団自決で家族全員を失った夫が米軍車両の前に座り込んで自殺を図ったり、家族の
この夫をモデルにした像などが制作され、「世代を結ぶ平和の像」と名づけた。金城さんは「つらい記憶と向き合う苦しい作業を強いたかもしれないが、体験を口にすることは、心の負担を軽くし、前に進む力にもなるはずだと考えた。戦争の恐ろしさを伝えていかなければならない」と語る。
背景知って
一方、知花さんは、平和学習の場として知られるようになったガマで長くガイドを務めたが、4年前に引退した。現在は長男の昌太朗さん(37)が民宿経営の傍ら、父から聞き取った遺族や生存者の証言などを修学旅行生ら訪れた人たちに伝えている。
昌太朗さんは、「集団自決を強いられた背景を知ってもらうため、一方的なガイドではなく、遺族や生存者の思いを想像してもらいやすいようにあえて質問を重ねる対話を重視して案内している」と話す。
この日の慰霊祭では、祖父母らを亡くした与那覇徳市さん(82)が遺族を代表し、「平和な世の中になるよう力を貸してください」とガマ内にある祭壇に向かって語りかけた。その後、参列者は線香をあげ、読経の声が響いた。
慰霊祭後、昌太朗さんは連れてきた娘3人(4~10歳)に、ガマに残されている遺骨などを見せ、我が子にも手をかける自決があったことなどを改めて伝えた。昌太朗さんは「チビチリガマの記憶を次の世代につないでいきたい」とし、金城さんは「チビチリガマが子々孫々の代まで平和について考え、伝える場となってほしい」と願った。