滋賀県・竹生島に移転された大坂城の極楽橋 豪華絢爛な装飾から感じる秀吉の苦悩
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11月23日、名古屋市立大学・近世名古屋学講座の開設を記念した公開講座を名古屋市中区の伏見ライフプラザで開催した。この講座は、8月20日に織田信長の城をテーマにして1回目を開催し、この日は2回目。今回のテーマは城から考える豊臣秀吉である。名市大のみなさんがていねいに準備を進め、読売新聞が告知記事を掲載してくださったおかげで、当日は会場に多くの方が集まってくださった。心から御礼申し上げたい。
第1部で、基調講演として「秀吉の巨大城郭を読み解く」をテーマに話した。第2部では名古屋市博物館の岡村弘子学芸員と一緒に、参加者からの質問に答えながら、秀吉の城と時代を考えた。岡村学芸員は、市博で編集している「豊臣秀吉文書集」を担当して、秀吉の古文書7000通すべてを読んだスペシャリスト。名古屋市は秀吉研究の重要拠点である。
さて織田信長が進めた天下統一を受け継いだ秀吉が関わった城は、全国におよんだ。だから日本各地にある秀吉の城を資料にして、秀吉とその時代を考えられる。
秀吉は多数の城を築いたが、その中で豊臣大坂城は名高い。しかし、この城は1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で落城・炎上した。そのため私たちは記録に伝えられる豪華
極楽橋は、関白・豊臣秀吉が天皇を補佐するために京都へ行き来するときに用いた特別な廊下橋で、壁や屋根をもち楼閣まで備えた。秀吉の死後に徳川家康が命じて、京都の豊国神社にまず移築した。その後、家康の指示で琵琶湖に浮かぶ滋賀県竹生島の宝厳寺に再移築した。極楽橋はそれほど秀吉の権威と力を象徴した建造物で、家康と江戸幕府にとって不都合な存在だった。
国宝唐門として残る極楽橋は、2020年の大規模修復によって本来の彩色がよみがえった。「極楽」と呼んだように、建物の内外を飾る極彩色の装飾は驚くばかりである。今に残る極楽橋を観察すると、建物の壁面いっぱいに薄板でできた花鳥のレリーフを彩色して
それにしても秀吉は、なぜ豪華で巨大な城にこだわり続けたのだろうか。
生まれながらの武将として家臣に支えられた大名たちに対して、秀吉は自分の才覚と行動で天下人にまで上り詰めた。その努力は今日の視点から見て称賛に値する。しかし、成功を重ねても秀吉は、最後まで出自の劣等感を克服しきれなかったのではないか。誰もが驚く城や
秀吉の気持ちが痛いほどわかるという人もいると思う。人としての価値は、高価なブランド品をどれだけ身につけているかで決まると考えると、着飾らないといられない。しかし、人の価値を決めるのは人の内面である。その充実が伴わなければ、見せかけを飾っても意味があるだろうか。そして豪華絢爛な城は、努力で克服できない秀吉の心の隙間を埋めるものだったとすれば、秀吉の苦悩の深さは改めて胸に迫る。
自分の弱点を誰よりも自分自身が認めて、自分らしく生きるのは、いつだって勇気がいる。公開講座で話しながら、私は秀吉の城の豪華さに惑わされずに、城から本当の秀吉を考えたいと思った。そして地位や見かけではなく、人の内面の充実に寄り添う人でありたいと願った。(城郭考古学者)
千田嘉博(せんだ・よしひろ) 1963年、愛知県豊田市生まれ、名古屋市育ち。奈良大卒。名古屋市教育委員会学芸員、国立歴史民俗博物館助教授、奈良大教授、奈良大学長などを経て、2023年9月から名古屋市立大教授・奈良大特別教授。