5歳で亡くした母から20歳になるまで毎年届いた「天国からの手紙」…児童指導員として新たな一歩を踏み出す女性「私にしかできないことがある」
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5歳で母を亡くし、松山市のファミリーホームで育った梨菜さん(22)の元には、20歳になるまで毎年の誕生日に、母が亡くなる直前に書いた手紙が届いていた。「天国の母からの手紙」や、自身を受け止めてくれた周囲の存在を支えに歩み、今春、児童指導員として新たな一歩を踏み出す。これからは支える側として、子どもたちに寄り添っていくつもりだ。(喜多河孝康)
今月13日にあった福岡県内の大学の卒業式。「これからは子どもたちに関わって仕事をする仲間。現場の声を聴いて、一緒に考えることができたらいいな」。指導教官の大西良准教授(47)から、そう声をかけられた梨菜さんは、照れた表情を浮かべた。
5歳の時、母・順子さんが子宮
運営する川副叔子さん(78)夫婦は、いつもおいしいご飯を作り、誕生日や行事も祝ってくれた。大切にされていると実感できる日々だったが、「おばちゃん」と慕っていた川副さんに、母のいない悲しみをぶつけ、困らせたこともあった。「感情を思いっきり出せるぐらい安心できる場所。家だった」
母と同じ美容関係の仕事に就きたいという気持ちは、そうした環境に身を置く中で変化していった。「自分の経験を生かして、同じような境遇の子どもに寄り添える存在になりたいと思った。おばちゃんたちへの恩返しもしたかった」。高校3年の進路面談で、子どもたちを支援する仕事を目指したいと打ち明けた。
大学で社会福祉を学び、孤独を抱える若者や子どもたちと積極的に関わった。
1年の頃から、大西准教授らと月2回、様々な理由で家に帰れない若者が夜に集まる福岡市中央区の
3年の時には、育児に不安を抱える母親らが子どもと生活する「母子生活支援施設」でアルバイトをした。子どもたちから愛称で呼ばれ、次々と声をかけられた。「ねえねえ、聞いて」「見てみて」。愛情を求める子どもたちと向き合う責任の重さに、「正直、逃げたいと思う瞬間もあった」という。
それでも、経験を重ねるうち、「子どもたちに何ができるか」という視点で考えられるようになり、現場で働く覚悟が固まった。それは、自分の人生を肯定することでもあった。
梨菜さんには強い味方がいる。
〈世界中で一番愛する梨菜〉(10歳)、〈1度しかない人生を大切に生きて下さい〉(15歳)……。母が病床で、20歳までの梨菜さんの姿を想像して書き、亡くなる前に弁護士の佐藤
20歳を最後に手紙は届かなくなった。昨年の誕生日は、友人と食事をし、試験勉強に追われていた。かつてのように手紙を待つ日ではなくなったが、「大人になったんだから、ここからは自分の人生を歩みなさいって、背中を押してくれてる気がする」と思えた。
〈何度の失敗でもあたってくだけろ!!〉(20歳)。手紙に残る母の言葉を胸に、4月からは福岡県内の児童養護施設で働く。
佐藤さんは「手紙は、未来の彼女を信じて書かれていた。その願い通り、自分の足で人生を選び取った」と話す。大西准教授も「当事者としての経験を持つ人が現場に立つ意味は大きい。梨菜さんの存在が、子どもたちの憧れになる」とエールを送る。
「子どもたちの希望になると簡単には言えないけど、私にしかできないことがあると思う」。梨菜さんはそう話した後、少し間をおいて続けた。「だから、子どもたちの力になりたい」
誕生日は再会の日…20歳までの歩み
読売新聞は2023年12月、連載「 天国からの手紙 」(7回)で、梨菜さんの歩みを紹介した。
〈おかあさんは、りなのこといつまでもあいしてるからね〉。最初の手紙が届いたのは、母の死から半年がたった6歳の誕生日だった。児童養護施設でふさぎ込んでいた時期。受け取った日は寝付けず、何度も読み返して涙があふれた。
その後も毎年、誕生日に届いた。〈7さいのとしもたのしい事がたくさんありますように〉。反抗期が始まった13歳には、〈自分のできるペースでやればいいと思います〉。16歳の手紙には、〈あこがれる男の子の1人くらいはできてしまったかなあ〉とあった。
成長に合わせ、少しずつ文字も内容も変わっていく手紙に、「見てくれている」と実感できた。誕生日は、母と再会する日だった。
連載の最後で、大学2年だった梨菜さんは「今度は私が支える側になるよ」と語っていた。
児童指導員とは
児童養護施設などで子どもの生活や成長を支える専門職で、大学で福祉・教育・心理などを学ぶか、一定の実務経験を満たすことが要件。学習支援や生活指導、相談対応を通じて、自立を後押しする役割を担う。