関門海峡周辺に今も眠る機雷…戦争末期に米軍が5000発投下、78年たっても続く処理
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要衝断つ「飢餓作戦」
下関基地隊によると、米軍は戦時中、国内の主要な港湾や海峡周辺に約1万2000発の機雷を投下したとされる。このうち半数近くの約5000発は、今回の処理現場を含む関門海峡周辺にばらまかれた。海上交通の要衝だった同海峡を封鎖して、物資の補給を断つことが目的で「飢餓作戦」と呼ばれる。周辺には今も、機雷が1000発以上残されているとの試算もある。
機雷には船体に接触して爆発する型式のほか、磁気やスクリュー音を感知して動き出す物など様々な種類がある。現在では腐食が進み、作動する危険性は極めて低いが、強い衝撃が加われば爆発する可能性はゼロではない。
処理任務を指揮した第43掃海隊司令の伊藤晃3佐は「関門海峡周辺には多くの機雷がまかれた歴史がある。危険が伴う作業だが、安全を確保しながら対応している」と語った。
地上では年間1300件の不発弾処理
戦時中の不発弾を巡っては、地上で発見された砲弾や爆弾が注目されることが多い。防衛省によると、昨年度の処理件数は1372件に上った。一方で、機雷についても、記録が残る1975年度以降は年間0~12個のペースで処分されている。
不発弾処理は、サンフランシスコ平和条約に基づく戦後処理の一環として日本政府の責務とされ、自衛隊が対処している。
国際海洋法に詳しい明治学院大の鶴田順准教授は「陸上での風力発電の適地が減っていることもあり、洋上風力発電への期待が高まっている。関門海峡以外の地域でも、地盤調査や環境影響評価(環境アセスメント)の前に、海底に機雷が残されていないか確実に調べる必要がある」と指摘する。
終戦直後には63人死亡する事故
機雷は敷設は容易だが、除去には高い技術が必要で、戦争が終わった後も海中にとどまり、深刻な影響を及ぼす。
終戦直後には、民間人が犠牲となる事故も起きた。1949年3月30日、新潟県名立町(現・上越市)の海岸に機雷が漂着して岩に接触して爆発。周辺に集まっていた小学生36人、中学生7人、幼児13人を含む63人が死亡した。
海上自衛隊も伝統的に機雷の除去に力を入れており、掃海任務は「お家芸」とされる。1991年には、湾岸戦争後のペルシャ湾で、イラクが敷設した計34個の機雷を処理。砂漠の砂で濁る海中での作業だったが、1件の事故も起こさず任務を遂げた。これは自衛隊として初の海外派遣となった。
機雷は現在も戦争で使われている。ロシアによるウクライナ侵略では、ロシア軍が穀物輸送を妨害するため、黒海に面したウクライナの港湾周辺に敷設したとされる。
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