憲法なぜ改正されない? 「憲法調査会25年」のパズルを読み解く
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■日本国憲法が改正されてこなかった理由を突き止めるのは難しい。一度も改正されたことがなく、複数事例の比較研究ができないからである。
■政治は内閣支持率や議席率などの数字だけでなく、最後は「言葉」という主観的要素で動く。近年、言葉の役割に着目した分析モデルが注目されている。
■平成の政治改革の流れに立つ首相主導の「安倍方式派」と、首相主導に逆行する与野党協調の「中山方式派」の間の相互無理解が、混乱を生んできた。
■中山方式は、「改憲=9条改正」という自民党の通念をも否定しかねない手法であることをよく考えつつ、骨太な憲法論議を蘇らせる必要がある。
調査研究本部主任研究員 舟槻格致
日本国憲法は5月3日、施行78年の憲法記念日を迎える。憲法が一度も改正されなかったことは、戦後日本政治最大のパズルの一つだろう。なぜなら、憲法改正を訴え続けてきたのが、この間ほぼ政権の座にあった自由民主党だからである。自民党は多くの国政選挙で民意の支持を集め勝利してきたからこそ、与党であり続けてきた。読売新聞社の世論調査でも1993年以来、ほとんどの時期に世論の「改憲派」は「護憲派」を上回り、94年以来3次にわたる憲法改正試案を発表した読売新聞をはじめ様々な改憲の提案が行われてきた。この「なぜ」に答えるのは難しい。2000年に国会で憲法論議を行う憲法調査会が設置されて四半世紀となる。本稿は、「改憲」という政策プロセスへのアプローチがアクターたちによってバラバラで、一貫していなかったことに、原因の一つを見いだそうとするものである。
因果推論が難しい「憲法改正」というプロセス
社会科学で因果関係の推論を行うには、改憲といった事象が「起きた場合」と「起きなかった場合」の複数事例の比較検証を行うことが、通常は求められる。事例数n=1の場合には因果推論を諦めよという極端な説も存在する(注1)。日本で憲法改正は歴史上、一度も起きておらず(注2)nはゼロである。京大の待鳥聡史教授は「日本では、近代国家として憲法典の改正を行ったことがないため、そこに至る政治過程を分析して、帰納的に特徴を見出すことは不可能である」と説く(注3)。
しかし、歴史上1回しか起こっていない事例こそ、社会科学による原因解明が期待されることは少なくない。「ローマ帝国はなぜ滅びたか」「明治維新はなぜ成功したか」といった事象である。日本の憲法改正も、そうした問題ではないだろうか。「観察事例ゼロ」のケースで、何を説得力を持って語れるかが問われているのである。
規律密度や世論からのアプローチ
日本で憲法改正が進まない理由について、従来〈1〉憲法96条が定める改正手続きが厳格すぎて改正が困難であること〈2〉第2次世界大戦で悲惨な経験をした日本国民の間で、「改憲アレルギー」が強かったこと―が挙がることが多く、いずれも、今も有力な見解であろう。だが〈1〉には専門家から異論が出ているし(注4)、〈2〉についても戦後間もない時期には国民の間で9条改正を求める声が多かったという研究が存在する(注5)。
近年、有力な説として登場したのが、〈3〉日本国憲法は「規律密度」(条文の数の多さ)が低い〈4〉有権者が違憲の疑いの濃い政策をあまり問題として来なかった―という説明である。
〈3〉を説いたのが、関西学院大教授の井上武史氏や、東大社会科学研究所教授のケネス・盛・マッケルウェイン氏である。井上氏は、「他の立憲主義諸国の憲法と比べたとき、日本国憲法の条文の量は顕著に少ない」と指摘した。条文数が少ないため、本来改憲すべき場合も法律など下位法源のレベルでの対応(公職選挙法、内閣法など)で実質的意味の憲法改正が済まされ、憲法「典」の改正を阻んできたというのである(注6)。18世紀以降に制定された世界の900以上の憲法がどのように変遷してきたかを定量的に検証したマッケルウェイン氏は、特に日本国憲法では統治機構に関する縛りが弱く、法律に委ねられている事項が多いことから、日本国憲法は構造的に改正する必要性が低かったと指摘した(注7)。
また戦後行われた世論調査の集計結果1200件超を網羅的に収集して調べた東大教授の境家史郎氏は、憲法改正論議で焦点が当たる内容が変化してきたことを実証し、9条に焦点が当たった時には改憲を求める世論は低下したが、2000年代初めなど体制改革のための改憲では世論の支持が高まっていたことを明らかにした(注8)。さらに、少なくない憲法学者が違憲とみる政策でも、有権者が特段問題視せず、融通無碍な解釈が行われきたという(注9)。近代立憲主義に基づく制限規範としての日本国憲法の機能が空洞化していることを厳しく指摘したといえる。
いずれも、従来漠としてしか捉えられてこなかった日本国憲法とその改正論議について、重要な背景事情を明らかにした画期的な研究といえる。ただ、これで「なぜ改憲が起きなかったか」がすべて説明されたとはいえないだろう。
アイデアや言説に着目したアプローチ
現実政治における政策過程(ポリシー・プロセス)は、すべて客観的な条件(たとえば内閣支持率、与党議席率など)や、政策の必要度に対応して進むかどうかが決まるとは限らない複雑な経過をたどる。必要性が乏しくても実現する政策もあれば、必要性が高くても実現しない政策も少なくない。そこで、近年の政策過程分析において、非物質的な「アイデア」や「言説」といった(間)主観的要素への注目が高まってきたことに着目したい。政策は、政治家や官僚、メディア、有権者、政策活動家など個別の政策ごとに集まってできた「政策サブシステム」(政策分野ごとに形成されたネットワーク状の人や組織のこと)の中で行われる言葉のやり取りの中で、実現したり、逆に頓挫したりする一連の流れだという捉え方である(注10)。
こうした見方から昨今、様々な理論が提唱され、実際の政治現象に対する分析評価が行われている(注11)。本稿は、憲法論議という一つのサブシステムの中で、改憲という同じ目的を持つ同志のはずの二つの「唱導連合」(グループ)が、互いに異なる戦略を繰り出し、それが噛み合わなかった結果、現状(「改憲=ゼロ」)に至ったのではないのか、という視点から論じる。二つの連合とは、25年前に衆院憲法調査会が発足した時に初代会長を務めた中山太郎氏を中心とする連合と、戦後の首相として最も憲法改正に熱心だった安倍晋三氏を中心とする連合の両者である。中山氏にちなんで名付けられた、与野党協調による運営手法である「中山方式」と、平成の政治改革以来進んだ「首相支配」(注12)(あるいは首相主導)型政治の間には大きな認識のずれがあり、両連合において、そのことが明確に理解されてこなかったことが混乱を招じたのではないか、というのが本稿の見立てである。
事実経過と8つの果実
そこでまず、25年に及ぶ憲法調査会以来の国会における憲法論議の歴史を簡単に振り返りたい。大きく分けると、組織は2000年から05年に衆参両院で最終報告書が提出されるまで(注13)の「憲法調査会」、07年に国民投票法を成立させた「憲法調査特別委員会」、それ以降の「憲法審査会」に分けられる。名称が違うことから分かるとおり、権限や審議の対象が異なっていたが、いずれも与野党協調を掲げ、衆参の法制局を主体とする事務局が補佐しながら慎重に運営されてきた点で一連の組織体と見なして良いだろう。本稿では、合わせて「(憲法)審査会等」と呼ぶこととする。
憲法典の改正が実現していないことだけに着目すると、審査会等は足踏みを続けてきただけと誤解されるかもしれないが、25年の間、審査会等は活発な時期と、時にほとんど開かれない状態を往復運動のように繰り返しながら現在に至ってきた。その中で、憲法典の改正には至らぬものの、いくつかの果実を生み出してきたのである。そこで、果実に至るプロセスを振り返ってみたい。
▪果実0 憲法調査会発足
そもそも2000年の調査会発足自体が、綱渡りの政治プロセスであった。調査会設置の旗振り役は、湾岸戦争当時に外相として国際貢献を求められ苦労した経験を持つ中山太郎衆院議員であった。中山氏率いる議連は当初、憲法改正発議原案の審議まで行うことのできる本格的な機関を目指していた。これに民主党内のリベラル派が難色を示す中で、議案提出権のない「参院の調査会のような組織」という提案が民主党側から出され、公明党も賛成する。中山氏は譲歩を決め、議院運営委員会の申し合わせで「議案提出権がない」組織に落ち着いていったのである。妥協成立に伴い、調査会設置に反対していた社民党、共産党も、発足すれば出席することには同意する。当時の小渕恵三首相は、こうした流れを静かに見守った(注14)。ここに戦後はじめて、国会に現憲法を論議する常設機関が出来たのである。
調査会の開始は、衆院が00年2月17日、参院が同2月16日である。運営にあたっては、衆院側会長の中山氏の発案で、与野党協調に強く配慮した方式が採用される。今にいう「中山方式」の誕生である。
中山方式を巡っては様々な関係者が発言しているが、原点に遡れば以下のように定義される(注15)。
(1)会長代理は野党第1党から選ぶ(2)政府(省庁)関係者の出席は原則として認めない(3)座席の配置は与野党が向き合わない楕円形とする(4)発言時間は議席数比例とせず、ネームプレートを立てた委員を指名する。一定時間を超過するとブザーを鳴らして終了を促す(5)資料は傍聴人にも配布する。
▪果実1 衆院憲法調査会中間報告
衆院憲法調査会は02年11月、中間報告を取りまとめた。調査会規程では、最終報告書と異なり作成が義務づけられていなかったが、2年以上の議論の成果を国民に対し説明する責任を果たすことは、当然でもあった。だが民主党のリベラル派は、改憲の流れにつながることを警戒しており、これを察知した中山氏は、取りまとめを半年ほど遅らせた上で、内容も、改憲の方向性を指し示さない論点整理にとどめることを許容したのである。中山氏は、中途半端な「果実」に甘んじることで円満な調査会運営を維持し、05年の最終報告へと期待をつないだのである。参院側は中間報告の取りまとめを見送った。なお、時の小泉純一郎首相は当初、首相公選制導入のための憲法改正を強く訴えたが、実現可能性が低いと知ると国会の動きを静観する姿勢に転じている。
▪果実2 衆参憲法調査会最終報告
衆参両院の憲法調査会は05年4月、それぞれ最終報告書を取りまとめている。審査会等の歴史上、最大の果実の一つと言って良かろう。
衆院の報告書は、少なくとも20人以上の委員が発言したテーマで3分の2以上が賛成した意見を「多く述べられた意見」(多数意見)と明記した。「前文に歴史・伝統・文化等を明記」「環境権・環境保全義務などを憲法に明記」「知る権利・アクセス権、プライバシー権を憲法に明記」「非常事態規定を明記」などである。特に意見集約が難航したのが、9条を巡る表現であった。自民党は当初、自衛隊及び自衛権の位置づけについて「何らかの憲法上の措置をとる必要がある」と明記することを主張したが、民主党、公明党が受け容れず、「憲法上の措置を否定しない意見が多く述べられた」という消極的な言い回しで決着した。集団的自衛権の行使についても、中山氏は「認めないとうちの党はもたない」と強気で民主党に迫ったが、最終的に「集団的自衛権の行使は、『認めるべきだ』『認めるが限度を設けるべきだ』『認めるべきではない』にほぼ三分された」という玉虫色の表現で落ち着いたのである。
参院の報告書は、自民、民主、公明3党の意見がおおむね一致したものを「すう勢である意見」(すう勢意見)と記述した。これには環境権、プライバシー権のほか、「新しい人権」の憲法上の明記などが含まれている。もともと、すう勢意見は明示しない方向だったが、衆院側が踏み込んだ内容の報告書を取りまとめたことに焦りを強め、関谷勝嗣会長らが原案を手直しして書き込んだのである。
なお、この時点でも首相・執政府は、議論にほとんど介入していない。
▪果実3 国民投票法制定
07年5月には、憲法調査特別委員会を舞台に国民投票法が制定された。当初は、自民党と民主党、公明党が共同提案する方向だったが、民主党の小沢一郎代表が「対立軸が出ない」「あまり賛成でない」との意向を示し、さらに安倍晋三首相が参院選の争点とする考えを示したことで、与野党の蜜月ムードが崩壊し、民主党が反対する中で法律は成立した。3党協調が必要十分条件とされてきた憲法論議の果実としては異例であり、その後、審査会は長年開くことができないという副作用を伴った。
▪果実4 憲法審査会発足
憲法審査会が議論を開始したのは、11年11月である。衆参両院の「ねじれ」を背景に、自民党が民主党を突き上げる形で、すなわち野党が主導する形でスタートにこぎ着けた。審査会は、調査会の最終報告を「復習」しつつ条章ごとの自由討議を行っていった。
▪果実5 国民投票法改正
12年に自民党が政権を奪還すると、安倍首相は憲法改正手続きを定めた96条を改正し、要件を緩和することを強く訴える。民主党内にも容認する意見が当初あったが、当時の海江田万里代表らが自民党への対抗姿勢を強める中で、反対に傾いていく。世論の支持も高まらず、安倍氏は96条改正を断念する。
次に模索されたのが、国民投票の投票年齢をいつ「20歳以上」から「18歳以上」に引き下げるかなどを定めるための国民投票法改正であった。安倍氏はこの時期、96条改正に次ぐ政治課題として、集団的自衛権の行使容認のための閣議決定・法制定に動き与野党間には緊張が高まりつつあったが、国民投票法改正は、集団的自衛権の議論が本格化する直前の14年6月、与野党協調の中で実現する。調査会以来残っていた自民党の船田元氏と民主党の枝野幸男氏のパイプが、ぎりぎりのタイミングで機能したともいえた。
▪果実6 国民投票法再改正
集団的自衛権の限定行使を認めた安全保障関連法を巡る議論は、長年の政治闘争の幕開けであった。憲法審査会は一時、ほとんど開かれなくなり、時には、同法の合憲・違憲論争が再燃することを警戒した自民党が、審査会開催を拒んだこともあった。安倍首相に近い自民党議員の批判に立憲民主党が反発するなど、審査会の運営はギクシャクした状態が続いた。
ただ、国民投票法についてはその後、公職選挙法の改正に合わせて、商業施設や駅などで投票できる「共通投票所」を設置することや、洋上投票を航海実習中の学生らに拡大することなどの新たな改正の必要性が生じ、対応が迫られていた。あまりに長く放置することには立民内からも「これ以上は引っ張れない」といった声が沸き起こり、21年6月には再改正が実現するのである。この時点では、首相は安倍氏から菅義偉氏に代わっていた。
▪果実7 オンライン国会決議
続いて問題になったのは、新型コロナウイルスの拡大を受け、衆参両院の本会議を開く要件を「総議員の3分の1以上の出席」と定めた憲法56条について、緊急時には国会でのオンライン審議も憲法上認められると考えるかどうかであった。衆院憲法審査会は22年3月、議員が議場にいる「物理的出席」を原則としつつも、緊急事態が発生した場合には例外的に認められる―との報告書を、共産党を除く与野党の賛成多数で議決した。
異なるアプローチで語られた憲法改正論議
過去の経緯を振り返ると、改憲を党是とする自民党内でも、二つの大きな異なる潮流があることが指摘できる。一つは、与野党協調を重視する「中山方式派」のアプローチであり、もう一つは、首相が先導してこそ憲法改正は実現するという、いわば「安倍方式派」の手法である。
どちらが正しいかをジャッジすることが本稿の目的ではないが、調査会発足から最終報告書提出までは、一時期小泉首相が改憲による首相公選制を唱えたことなどを除けば基本的に「中山方式派」が主導権を握っており、国民投票法制定論議も途中までは同じ流れで動いていた。それが途中から、現場の調整を尊重しない党首や首相の発言が相次ぎ「安倍方式派」の影響力が強まっていく。長年の休眠状態の審査会を再び動かす段階では、国会主導で「中山方式派」による運営が行われていたが、堂々巡りの議論を繰り返すことにしびれを切らした「安倍方式派」から様々な提案が行われ、審査会の議論は空転が続くのである。
その後、自民党は第2次安倍政権の終盤以降、国会側の議論を極力尊重する姿勢を強めるようになり、審査会は相対的にスムーズに開催されるようになっていく。「安倍方式」を貫くならば、審査会が滞っても「正論」を訴え続け、世論の支持が高まるのを待つというアプローチの方が論理的には整合的といえたが、採用されなかった。
「安倍方式派」の考えは、首相が憲法改正を訴えることが実現につながるというもので、少なくとも直感的には理解しやすい手法だろう(注16)。「安倍方式派」は、ポルスビーの議会類型によれば、「アリーナ型議会」(議員立法を作るよりも与野党対決が重視されるタイプの議会)において、ウェストミンスター・モデル(英国議会型)の強い執政府が政治を主導する平成の政治改革(注17)の延長線上で理解されたものであった。これに対し「中山方式派」は、政治改革の流れには逆行するものであり、それゆえ理解が十分になされなかったのではないか。
中山氏が当初、強調していたのは「3分の2」を確保することの難しさであった。これは、21世紀初頭の与野党伯仲型の議会構成を受けたものだったが、その後、与党は2005年に3分の2の議席を達成し、参院においても、遅くとも16年には「改憲勢力3分の2が実現した」と、各メディアは報じている。
第2次安倍政権の半ばには、3分の2を糾合して改憲発議の採決まで突き進むことも論理的には可能だったことになるが、この頃より「3分の2」を超えて「野党第1党も賛成」さらには「幅広い多くの会派の同意が必要」と、ハードルは高まっていく。これは、仮に3分の2で反対派を押し切って改憲を発議しても、国民投票で過半数による承認が得られる保証がないためであった。
「中山方式」のハードルを上げて憲法改正が可能な論点を探そうとすると、「首相による自由な衆院解散権の制約」「臨時国会の召集要求があった場合の期限の設定」など、政権運営のブレーキとなる項目(注18)まで包摂した中で意見集約を図らざるを得ないことになるのは、当然であった。
自民党が「党是」として想定していた憲法改正の中身は、まず9条改正であった。だが、3分の2や、さらに幅広い合意が必要となれば、自民党が志向していたのとは似ても似つかない改憲内容となる公算が大きい状況であった。
その意味で、中山方式とはきわめてラディカルな政治手法であることを、明確に理解する必要があったといえる。自民党が正しいと信じる改憲内容を正面から訴え続けるべきか、合意形成を優先するか、あらためて考える必要があろう。中山氏が憲法改正運動に取り組んだきっかけは9条改正にあったことを考えると、皮肉にも、中山氏自身が「中山方式」の帰結について、明確な青写真を持っていなかったともいえる。
二つの連合が、互いに相手の主張を十分に理解しようとせず、それぞれが中途半端に自らの手法を貫こうとする中で、憲法改正という政策過程は足踏みを続けたのである。その結果、各党の憲法論議は、憲法調査会の時点で多く語られた、理想的な憲法へのバージョンアップではなく、「いかにして改憲を阻止するか」「改憲しないとどうしても弊害が避けられない論点を探し出すか」といった議論へと矮小化が進行したのである。
進んだ議論の矮小化
2018年の(旧)立憲民主党の文書「憲法に関する考え方」では、「日本国憲法を一切改定しないという立場は採らない。立憲主義に基づき権力を制約し、国民の権利の拡大に寄与するとの観点から、憲法に限らず、関連法も含め、国民にとって真に必要な改定があるならば、積極的に議論、検討する」と記されていた。だが野党再編後の20年の立民の文書「憲法論議の指針」では、「検討に際しては、憲法の条文の規定ぶりから具体的かつ不合理な支障があるか、あるいは条文に規定がないことから具体的かつ不合理な支障があるかを重視する。すなわち、立法事実の有無を基本的視座とする」と書かれている。憲法調査会時代に特に強かった改革志向の改憲方針は、「弊害除去型最低限改憲論」へと後退したのである。
憲法調査会スタートから四半世紀を経て、憲法論議を隘路から救い出すには、国民投票というゴールを見据えた道筋を、今一度整理しておくことが、遠回りのように見えて必要であろう。
●注釈
(注1)久米郁男(2013)『原因を推論する』(有斐閣)201~202頁。
(注2)日本国憲法は手続き上は、大日本帝国憲法の改正案として、枢密院への諮詢を経て帝国議会で成立している。
(注3)駒村圭吾・待鳥聡史編(2016)『「憲法改正」の比較政治学』(弘文堂)9頁。
(注4)たとえば辻村みよ子(2014)『比較のなかの改憲論―日本国憲法の位置』(岩波書店)46頁。
(注5)たとえば境家史郎(2017)『憲法と世論』(筑摩書房)92頁。
(注6)井上武史(2016)「いま「立憲主義」を考える意味」読売クオータリー2016春号20頁。
(注7)ケネス・盛・マッケルウェイン(2022)『日本国憲法の普遍と特異』(千倉書房)4~55頁。
(注8)境家前掲書242〜248頁。
(注9)東京大学法学部「現代と政治」委員会編『東大政治学』(東京大学出版会)230~236頁
(注10)これを「構成主義的転回(turn)」と呼ぶ。
(注11)代表的な教科書に、Weible, Christopher M. ed., “Theories of the Policy Process 5th edition” (2023) Routledge がある。
(注12)竹中治堅(2006)『首相支配―日本政治の変貌』(中央公論新社)参照。
(注13)参院においては、2007年はじめに憲法調査会から憲法調査特別委員会へと切り替わったが、本稿では、最終報告が提出された05年までを「憲法調査会期」、国民投票法案が議題となった05年から07年までを「憲法調査特別委員会期」、それ以降を「憲法審査会期」と位置付けている。
(注14)小渕首相は、憲法論議に表向きは不熱心でもっぱら国会に委ねる姿勢を示していたが、中山氏によると、「憲法は不磨の大典ではない」と最も強く言っていたのが小渕氏だったという。
(注15)中山太郎(2008)『実録 憲法改正国民投票への道』(中央公論新社)41~58頁。
(注16)安倍氏はかつて「憲法改正は、自民党総裁が進めなければ1ミリも動かない」と筆者に語ったことがある。トップが先導する憲法改正は固い信念であった。
(注17)首相支配体制の例外的な制度が、本人・代理人関係の連鎖上に位置付けられない参院と、地方分権改革で権限を強めた地方自治体である。憲法改正も、例外的な制度の一つと考えることも可能である。
(注18)憲法の制限規範としての役割を強調する立場からは好ましい改憲といえるかもしれないが、政府・与党の選好に反することは当然である。