日露戦争のロシア兵捕虜、釣りや買い物楽しむ優雅な暮らし…福井県に1枚だけ残る集合写真
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第三十六連隊
日露戦争が始まる8年前、陸軍歩兵第三十六連隊が鯖江に創設された。鯖江が収容先に選ばれたのは、軍隊の町だったことが影響している。藤田学芸員は「近くに憲兵隊が駐屯して鯖江駅もあり、監視や警備、輸送がしやすかった」と説明。付近で収容所となりうる大きな建物と言えば誠照寺だった。「明治時代半ば、町の人が威信をかけて寺を再建しており、立派な建物をロシア人に見せたかった気持ちがあったのかもしれない」と想像する。
誠照寺は第三十六連隊と関係があった。軍人には宗教的信念が不可欠として、当時の上人らが毎月第1、3日曜に布教を施し、戦う覚悟を説いた。第三十六連隊が旅順(中国東北部)攻撃で甚大な被害を出しながら、勇名をとどろかせたのは、「信仰による不抜の精神力による」(誠照寺史)としている。
外交上の意図も
捕虜はどんな生活をしていたのか。当時の新聞「北日本」がその様子を報じている。
05年6月4日付によると、料亭に西洋料理を作らせていたが、クキク中佐は料理好きで、部下らと自炊を始めた。「
10日付では、列車で福井を訪れ、足羽山へ登り、藤島神社へ参拝。帽子やこうもり傘、ハンカチ、美人絵はがき、指輪、食パンを購入するなど、優雅とも言える暮らしぶりだった。他の収容所であった脱走騒ぎや捕虜の死亡もなかった。
捕虜がこのような生活を享受できたのは、明治政府の外交上の意図があったとされる。藤田学芸員は「捕虜を大切に扱うことで、日本は文明国であることをアピールしたかった。肉親や親族を戦争で失ってロシアに反感を持つ人がいてもおかしくなかった時代、鯖江で捕虜とのトラブルがあったとの記録もない。鯖江の町も近代国家の一翼を担っていた」と説明する。
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