震度7に襲われ「野戦病院」と化した現場、無力感を味わった医師…教訓を次の災害に生かすのが「使命」
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あの日が原点-鐘紡記念病院㊤ 阪神大震災31年
31年前の阪神大震災で、神戸市兵庫区の鐘紡記念病院(現・神戸百年記念病院)は、発生直後から多くの負傷者を受け入れた。あの時、医師や患者たちが目にした光景、味わった無力感は確かに、次の災害に備える「今」につながっている。関係者への取材から、「野戦病院」の様相を呈した当時の様子を再現した。
1995年1月17日、午前5時46分、2階の当直室で仮眠をとっていた放射線科医・鷲尾哲郎(60)は、激しい揺れに動くことができなかった。「一体、何が起こったんや」
1階の防災センターでは火災報知器が鳴り響き、防火扉が閉まった。停電も起き、配管からは水が漏れ出した。鷲尾は1階の夜間受付に様子を見に行った。自宅で倒れた家具や割れたガラスで近所の人たち数人が血を流し、受付前に集まっていた。
当直の医師は自分1人だった。医師になって5年目の29歳。外科は専門外で、傷口を縫い合わせる経験も乏しかった。診療器具は棚から落ちて診察室に散乱し、どこに針や糸があるかわからなかった。暗がりの中、看護師と2人で非常灯を頼りに消毒と止血を続けた。
「病院内をしっかり確認することすら、頭が回らなかった」と振り返り、「結局、僕は何もできなかった」。
明るくなるにつれ、土まみれの被災者が担架代わりの畳や軽トラックに乗せられ、次々と運び込まれた。当時、治療の優先順位を決めるトリアージは国内では普及しておらず、1階待合室に簡易ベッドやパイプイスを並べて作った仮設の診療拠点では、混乱の中で処置が行われた。
33歳だった内科医・三輪陽一(64)は午前9時頃、神戸市垂水区の自宅から駆けつけ、心肺停止状態の3歳の男の子への心臓マッサージに加わった。
この時点で、先に到着した後輩医師が処置を始めてから、すでに約30分が経過していた。「もうだめだ」と思ったが、横たわる男の子が同年代だった自分の子どもの姿と重なり、中止する踏ん切りが付かなかった。
さらに30分ほど続けたが、助けられず、「なんで俺より先に逝くんや」と泣き崩れる父親を横で見守ることしかできなかった。
内科医・黒木康雄(66)は、神戸市須磨区の自宅で、強い揺れに一度は目を覚ましたものの、自宅周辺に被害がなかったため、寝室に戻った。この日は大阪に行く予定があった。「出張に間に合えばいいか」。2度目の起床時にラジオで被災状況を知った。外に出ると、街並みは変わり果てていた。1時間半かけ、徒歩で出勤した。
災害時に誰が病院に駆けつけ、どんな役割を担うのかというルールが、当時はなかった。
黒木が病院に着いたのは午前10時頃。近くの寮に住んでいた看護師らがすでに駆けつけて医師の業務をサポートしていた。「あまり貢献できず、後ろめたさを感じた」。残ったのは、苦い教訓だった。
震災の半年後に発行された病院の記録誌によると、この日は集まった職員で約200人の外来患者に対応し、13人の遺体を扱った。あれから31年。後悔の念を抱えた医師たちは、教訓を生かすため、次の災害に備える取り組みを続けている。
病院は震災後、救急の外来患者を24時間受け入れる体制を構築した。災害発生に対応できるよう整形外科医と内科医を常駐させている。トリアージは、研修で浸透を図り、当時を知る看護師らが若手に経験を伝える。
現在、副院長を務める黒木は言う。「当時は、それぞれの医師が個々に考えて対応していて、大量の患者に十分に対応できなかった。でも、あの状況を経験したからこそ、助からない人に時間を割かないトリアージの意味が今わかるんです」
三輪は、あの日救えなかった男の子のことを忘れたことはない。現在、国立病院機構・神戸医療センターの副院長として、災害訓練のシナリオや手順を定めるプログラム作りに携わる。
「阪神大震災で医療に携わった者としての使命感が、私たちにはある」。胸に抱くのは、強い思いだ。
鐘紡記念病院がある兵庫区は震度7の揺れに襲われた。神戸市によると、区内の死者は556人、負傷者は1755人。1万7000棟超の建物が全半壊した。
病院の記録誌によると、地震発生当日は夜までに近隣住民ら200人以上が1階の待合室などに避難してきたという。
入院患者約200人に大きなけがはなかった。震災当日、入院していた藤原